第3話 もどろきさん


 千佳と隆は、家を出て村の中を歩いて回った。千佳は右手と右足が同時に前に出るぎこちない歩き方だったが、隆の方は背筋がピンと伸びた綺麗な姿勢だ。


 服装も随分違う。ピシっとした軍服姿の隆に対し、千佳の方は着古した木綿の小袖にもんぺ袴の姿だ。せめて都会の子が着るようなワンピースでも着ていれば似合いの二人に見えたかもしれないが、残念ながら千佳はそんな上等な物は持っていない。それに着替えている時間も無かった。


 村の中にある郵便局や村役場を案内し終わり、さて次はどうしようかと考え始めた時、隆がおもむろに口を開いた。


「千佳さんのお気に入りの場所はどこですか?」


 そう言われて千佳の頭に浮かんだのは、山の上にある神社だ。だが、村から歩いて三十分ほどかかる。道すがら聞いた話では、隆は昨日神戸港に到着した後電車で大津まで来て一泊し、大津から江若鉄道に乗り換えて堅田で降り、堅田からバスに乗って伊香立まで来たそうだ。

 その道程を聞いただけで千佳はくたびれ果ててしまいそうになる。にもかかわらず疲れている様子が見えないのはさすが鍛え上げられた軍人さんだけはあると思ったが、同時にこの上往復一時間も山歩きをさせて大丈夫かと心配にもなった。


「なに、心配要りません。自分は足腰には自信があります」


 隆がそう言って聞かないので、千佳も折れて神社へ案内することにした。

 通いなれた道のことでもあり、千佳は峠道をすいすいと上っていく。だが、後ろを歩く隆は荒い息で必死についてきている様子だった。そもそも革靴で歩くような道でもない。


「やっぱり、戻りましょうか」

「いや、まだまだ」


 意地になっているのか、隆は頑として神社に詣でるまでは戻らないと言い張った。隆にそう言われると千佳もそれ以上強くは言えない。だが、さすがに限界に見えた。


「少し休憩しましょう」

「なんのこれしき」

「いいから、後ろを見て下さいな」


 千佳にそう言われて隆も後ろを振り返った。瞬間、隆の目が見開かれる。

 眼下には伊香立村が一望できた。村の中心を流れる小川はもちろん、川の周囲に作られた水田には空の青が映っている。村の奥には琵琶湖の湖水が見え、道を行き交う自動車や湖水のほとりを走る鉄道までもがはっきりと見えた。


 一陣の風が千佳と隆の頬を撫でると、さやさやと周囲の木々が葉裏を覗かせる音が響く。何とも心地よい初夏の風景だ。

 しばらく見入っていた隆だったが、やがてポツリと呟いた。


「美しい……」

「何もない田舎ですよ。あ、川だけは綺麗ですけどね」


 千佳はそう言って笑った。思えば隆と出会って初めて見せた笑顔かもしれない。だけど、自分の生まれ故郷を美しいと言ってもらえたことが素直に嬉しかった。

 しばらく景色を楽しんだ後、千佳と隆の二人はとうとう目的の神社の鳥居をくぐった。


「ここは何という神様ですか?」

還来もどろきさんという神様です。ここは『帰郷の神様』と言われていて、何でもずっとずっと昔に藤原旅子ふじわらのたびこというお姫様がこの辺りから京都に嫁いだらしいんですけど、そのお姫様が『死んだ後は故郷に埋葬して欲しい』と言っていたそうなんです。

 遺言通り死後にご遺体が埋葬されたのがこの神社で、何でもあのなぎの木の根元に埋葬されたそうですよ」

「故郷に戻れたんですね……うらやましいな」

「私も死んだ後はここに埋めて欲しいかなぁ。何もない田舎ですけど、やっぱり生まれ故郷ですから」


 いつの間にか自然に隆と会話していた千佳だったが、隆と正面から見つめ合っている事に今更ながら気づき、再び赤面してしまった。隆の方もふと気がついて視線を逸らす。周囲には人気が無く、二人の間には微妙に気まずい空気が流れた。


「お、お詣りして戻りましょうか」

「ええ。そうですね」


 気が付けば日は随分と西に傾いている。山の夕暮れは短く、ぼやぼやしているとあっという間に日が沈んでしまう。

 二人で上って来た道を急いで降りていると、伊香立村の入り口の辺りでいくつかの光がぼんやりと浮かんでは消えるのが見えた。


「ホタル……」


 隆が思わず呟くと、千佳も足を止めて明滅する光に見入った。辺りが暗くなるにしたがって次々と光が増え、いつしか周囲一面を埋め尽くすような光の洪水となった。

 ホタルの光が増えるにつれて太陽の光は鳴りを潜め、ついには隣に立つ人の顔も判別できない暗さになった。

「さすがにそろそろ帰らないと」と千佳が言い、二人で暗い道を歩いていると、やがて向こうの方からホタルとは違うカンテラの光が近づいて来た。光が二人の手前まで来ると、カンテラ越しに千佳の父、新次郎の顔が見えた。


「あ、おった! 千佳! お前はどこまで行っとったんや! このバカモン!」

「お父ちゃん。ちょっともどろきさんまで……」

「何! 婿さんは長旅でお疲れなのに、あんな山の上まで歩かせたのか!」


 新次郎の言う通り、さすがに遅くなりすぎだった。山には暗くなると野犬や猪なんかが出る。場合によっては熊と遭遇することすらもあった。山に慣れた大人でも、暗くなる前には山を下りるものだ。ホタルが飛ぶ時間まで山を歩いているのは、どう考えても遅すぎた。

 怒った父のゲンコツが飛んでくるのを覚悟して千佳が身を固くすると、隣の隆が新次郎に向かって頭を下げた。


「千佳さんは何度も帰ろうと言ってくれていたのですが、自分のわがままで長居をしてしまいました。ご心配をおかけして、申し訳ありません」


 そう言って隆が千佳を庇うと、さすがに新次郎もそれ以上は何も言えなかった。


「ま、まあ、ともかく二人とも早く帰って風呂に入れ。親戚ももう集まっとる。風呂から上がればすぐに祝言を始めるぞ」


 振り上げた拳の下ろし場所を失った新次郎が不機嫌そのものの態度でスタスタと歩き始める。千佳はそっと隆の方を窺った。暗くてよく見えなかったが、その顔は少し笑っているように感じた。

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