第3話 悪いことをしているのかしら

「やっぱりここのスコーンは格別ね! もう一つ頼んじゃおうかしら」

「もう、食べ過ぎは体に毒よ、ベティ。オリヴィアもそう思うでしょ?」

 スコーンが人気のそのカフェは、とても賑わっていた。主に平民ばかりの客層であったが、オリヴィアたち含め、貴族と思わしき姿もいくつか見られた。

 ベティとファニーは、オリヴィアが変わる決心をしてから初めて自ら声をかけた平民だった。最初こそ警戒されていたものの、ルーカスの助けもありこうして寄り道をする仲になった。

 彼女たちがオリヴィアを呼び捨てしているのは、彼女がぜひそうしてくれと願ったからだ。

「オリヴィア?」

「……あ、ご、ごめんなさい。少しぼうっとしてしまって」

「待ち合わせのときから少し様子がおかしかったですよね。何かありました?」

 問いかけたのはルーカスである。オリヴィアは微かに眉を寄せて、視線をぎこちなく動かした。

 その仕草は、以前までの彼女には見られなかったもので。公爵夫人たるもの、感情を表に出すべきではないと言い聞かせてきたからだ。

 ルーカスに「友人の前では素の状態でいいんですよ」と言われてから大分気を緩められるようになっていた。

「皆様にお会いする少し前、アンディ様に声をかけられましたの」

「そのわりに、あまり嬉しそうじゃないのね。スコーンも全然手をつけてないみたいだし」

 オリヴィアは膝に置いた手に力を込めて、服を握りしめた。それからゆっくりと静かに深呼吸をして、顔を上げる。

「このように皆様といるわたくしは、わたくしらしくないと言われて」

 スコーンを食べる手を止めて、ベティとファニーは顔を見合わせる。

「……悪いこと、なのでしょうか。貴族令嬢が平民と寄り道をするのは」

 今までの行動を考えれば、らしくないと言われるのも仕方がない。だがまるで、二人との付き合いを責められたような気がしてショックを受けた。なるべく動揺を見せないように振る舞ったけれど、実際あのときのオリヴィアの手は震えていた。

 婚約を解消したい、浮気をする、などと言っておいて、「僕との結婚なんて、どうでもよくなってしまったのかな」とは一体どういうつもりなのか。怒りなのか悲しみなのかわからない感情が押し寄せて、思わず唇を噛んだ。

「悪いことなわけないじゃない! そんなこと言ったらここのカフェにいる貴族の人たち、ほとんど悪人ってことよ? だって平民が営んでるカフェに来てるんだから」

「そうよ、オリヴィア。それに私達が通ってる学園だって、本来なら貴族と平民との調和を促すためのものなんだし。まぁ私達平民は貴族に気を遣ってしまうし、貴族の多くは平民のことを見下してるんだろうけど」

「わ、わたくしはそのようなこと、」

「わかってるって。最初は疑ったけどさ、こうやって何度も言葉を交わしてたらわかるよ。貴族ってだけで偏見を抱いていたのはこっちも同じだったって」

 突然ルーカスからオリヴィアを紹介されたときは、なんの冗談かと思った。

『わたくしと、お友達になってくださいまし!!』

 顔を赤くして、必死の形相で。いつもの取り澄ましたツンとした表情ではなく、年相応の少女の顔で。

「だってあたしたちのこと見下したままだったら、あんなふうにめいっぱい頭下げたりしないでしょ」

 今まで失礼なことをしてきて本当にごめんなさい。そう言ってオリヴィアが深々と頭を下げたとき、ベティとファニーは大層動揺したと言う。今まで常に高慢な態度でいた彼女が、誰かに対して頭を下げることなどしなかった彼女が、今にも泣きそうな顔をして何度も謝罪を口にしていた。

「オリヴィアは少しやり過ぎていただけで、志は悪くなかったと思いますよ。以前も言いましたけど、未来のために努力することは無駄ではありませんから」

 ルーカスが穏やかに言うと、ベティたちもうんうんと頷く。

「それにあたしたちと交流することだって、勉強の一つでしょ? 平民的にはやっぱり、こっちにもちゃんと目を向けてくれる貴族を支持したいもん」

「どうしても貴族って言ったら、ろくに働きもしないで贅沢してるって印象持っちゃうから」

 貴族が平民を見下しがちなのと同様、平民たちも貴族に対しては良い印象は少ないようで。

 ベティたちに声をかける前、ルーカスは「平民の心を捉えることは大切です。ときに彼らは貴族よりも強い力を発揮します」と言っていた。貴族令嬢として、――公爵夫人になれなくても、平民との交流は大切なのだ。

 実際彼女たちとの会話は、どれも新鮮だった。今までしたことのない「他愛のない会話」。何が面白かった、あれが楽しかった、そんな些細な会話がとても楽しくて、胸が躍った。

 アンディの良き伴侶となるためにしてきた行動のために、友人は一人としていなかった。貴族にありがちな取り巻きのような存在もなかった。オリヴィアは本当に、孤立していたのだ。

 婚約者に夢中だった頃には気づかなかった孤独が、今ははっきりとわかる。友を作るというのは、これほどまでに満ち足りたものなのかと思い知る。

「そうだ、貴族って言ったらさ、オリヴィア。未来の王太子妃候補に会ったことある?」

「未来の王太子妃候補って言うと、公爵令嬢くらいの地位の方でしょうか? 会ったことはありませんけれど……ベティはありますの?」

「うん、実はね。この前、ここのカフェに来たんだ。どこの公爵家だったかなぁ、名前は忘れちゃったけど、すごいかわいい子で、きらきらしてて。あたしたちよりいくつも年下なのに、所作がすっごい綺麗でさ。だけど全然気取ってなくて、平民のあたしたちにも挨拶してくれたんだ」

「まぁ、そうなのですね……」

 以前までの自分とは大違いだと、オリヴィアの心が落ち込む。あれだけ努力してきたというのに、どこで間違えてしまったのか。

「だからね、オリヴィア」

 呼ばれて、はっと顔を上げる。ベティが身を乗り出して、にかっ、と笑った。

「あたし、オリヴィアもそうなれると思ってる。そりゃ前までの態度はひどいもんだったけど、それでも所作や振る舞いはキレイだった。反省もして、変わろうとしているオリヴィアなら絶対素敵な公爵夫人になれるよ」

「私もそう思う。ジェンキンズ公爵子息だって、きっと惚れ直すんじゃないかな」

 ルーカスは三人のやりとりを、穏やかな笑顔を携えて眺めている。もう自分が介入しなくても、三人の友情は固く結ばれているだろう。そんなふうに考えていた。

 オリヴィアは瞳を揺らし、ベティとファニーをじっと見つめる。それから泣きそうに眉を下げて笑った。

「ありがとう、ベティ、ファニー。わたくし、必ず変わってみせますわ」

「もう充分変わってると思うけどなぁ」

「ね。この前ヘレナも言ってたけど、こんなに話しやすいだなんて思ってなかった」

 ヘレナ・オールポートはオリヴィアと同じく伯爵家の令嬢で、ベティたちの次にオリヴィアが声をかけた人物だった。彼女はもともとオリヴィアの行動に関してはほとんど気にしておらず、友人になってほしいとの言葉に「構いませんわよ」と迷いなく答えた。今日は急用のために来られなくなったが、彼女とも多く交流を重ねている。

 その他にも男爵子息や辺境伯子息など、性別を問わず様々な相手と言葉を交わすようになっており、少しずつ彼女に対するイメージは変わってきている。

 それにも関わらず、先程のアンディのあの言葉。

 オリヴィアの胸にずっと引っかかっており、何となく心が晴れない。何を考えてあのようなことを言ったのか、オリヴィアには全くわからなかった。



*****



「はぁ。ジェンキンズ令息がそんなことを」

 ベティたちと別れたあと、オリヴィアはルーカスにアンディに言われたことを全て打ち明けた。彼には泣き顔もしっかり見られてしまっているため、もう何も隠す必要はないと思っている。

「わたくし、とても順調にいっていると思ってましたのよ。友人、と呼んでいいのかまだわからないけれど、親しくお話しする方も増えて……前の一人ぽっちのわたくしより、今の方が断然良いと思っていますわ」

「そう思えているのはとても良い傾向ですね。僕も今のオリヴィアの方が好感が持てます」 

「う……た、確かに以前までのわたくしは、嫌われ者でしたもの。そう言われても仕方のないことだと思いますけれど、」

「あぁ、いえ。以前のあなたを嫌っていたわけではありませんよ。努力の方向を間違えているなぁとは思ってましたけど」

 オリヴィアはぱっと顔を上げて、ルーカスを見上げた。いつも通りの穏やかな表情に、安堵を覚える。

 人は腹の奥に何か抱えていると思って接した方がいい。彼に泣き顔を見られたあの日、変わる決意をしたあの日にルーカスはそう言っていたけれど。

 この笑顔に、その言葉に、裏がなければいいと思ってしまう。

「それで、ジェンキンズ令息ですが」

「え、えぇ」

「こう言ってしまっては何ですけど、化けの皮が剥がれてきたといいますか。オリヴィアが今まで見えていなかった彼の本当の姿が、見えてきたのだと思います」

「わたくしが見えていなかった……?」

「はい。意味は、あなたが一番良くわかっていると思います」

 盲目に、アンディを慕っていた。優しい笑顔に、声にときめいて、彼が喜ぶ顔が見たくて頑張ってきた。

 だが彼は、自分との結婚を望んではおらず。両親が決めたものだからと、渋々付き合っていた。そんな素振り、それまで一度も見たことがなかったのに。……否、見えていなかった。ルーカスの言う通り、アンディに夢中だったオリヴィアには彼の本心が見えていなかったのだ。

「もしかしたら焦っているのかもしれないですね。あなたの魅力が、他のひとにも伝わってしまうことに」

 ふふ、と笑いながらルーカスが言う。冗談なのか本気なのかわからない言葉に、オリヴィアは戸惑うばかりであった。

「――オリヴィア。ジェンキンズ令息に今のような行動をやめろと言われたら、あなたはやめてしまうのですか? 以前までのように、彼のためだけに高慢で偉そうな伯爵令嬢を演じるのですか?」

 問いかけに、どきりとする。

 らしくないと、アンディは言った。婚約者になることを諦めるのかと。婚約者であるのなら、今までのように振る舞えと――そう言われる可能性だって充分にある。そうなったときに自分はどうするのか。素直にアンディの言うことを聞いて、今までのように一人で、孤独である道を選ぶのか。

 答えは、もちろん。

「やめませんわ。勇気を出して出来た友人を捨てるような真似、淑女のすることじゃありませんもの」

 ルーカスの目元が、優しげに緩められる。

「ベティにファニー、ヘレナも、他の方々も……もちろん、ルーカスにも。わたくしはたくさんのものをいただいていますわ。楽しいおしゃべりの時間だったり、美味しいものだったり……一人では決して得ることの出来なかったものです。感謝すべきひとたちを捨て置いてアンディ様一人に尽くすほど、わたくしはもう、愚かな頃の自分には戻りたくないのです」

 アンディを慕う気持ちは、彼の拒絶の言葉を聞いた日から少しずつ少しずつ薄れてきていた。あれだけ長い時間焦がれてきたというのに、それだけアンディの言葉はオリヴィアの心を深く傷つけていた。

 それだけでなく、その後の彼の行動もオリヴィアの心が離れるきっかけになっている。

 マクシミリアン男爵令嬢は今や、まるで自分がアンディの婚約者であるかのように振る舞っている。時折オリヴィアの方を見てはくすりと笑って、アンディの腕に手を絡ませた。

 以前までのオリヴィアなら嫉妬で憤慨していたことだろう。今はただ、呆れてしまうばかりだ。

「アンディ様の優しさは、わたくしのためではなくご自身のためのもの。周囲の目を気にしての行動で、本心ではなかった。それを知ったときはショックでしたけれど……今は良かったと思っていますわ。知らないまま結婚していたら、それこそ良いように利用されていたに違いありませんから」

「……婚約解消には、前向きなのですか?」

 どこか驚いたような表情を浮かべながら、ルーカスが言う。オリヴィアは微かに眉を下げて笑い、えぇ、と答えた。

「わたくしは傷物になりますけれど……一生独り身かもしれませんけれど。でもきっと、友人がいるから大丈夫ですわ」

 その笑顔は、高慢で偉そうな伯爵令嬢のものではなく。ひとりの、オリヴィア・ブレイジャーとしての笑顔であった。ルーカスはそんなオリヴィアを見つめて、やはり穏やかに笑って。

「えぇ、きっと。あなたなら大丈夫です。オリヴィア」

 頼もしい仲間の――最初の友人の言葉に、胸が温かくなる。少しだけ泣きそうになって、オリヴィアはルーカスから視線をそむけた。

(なぜかしら。今はっきりと、『ルーカスがいれば大丈夫』と思ってしまったわ。わたくしったら、あの日からずっと彼に頼りっぱなしですのね)

 もう、手をとってもいいのかもしれない。彼は充分、信頼に足る男だ。

 だけれどまだ、最後の一歩を踏み出せない。長い時間信じていた相手に裏切られた傷は、オリヴィアの足を踏み止まらせる。

(でも、ルーカスなら……)

 彼なら急かすことなく、待ってくれるような気がした。オリヴィアの傷が癒えるまで、あの笑顔を携えて待ってくれるような気がしていた。

(やっぱり、甘えてますわ)

 公爵夫人になるべく意地を張り続けていた彼女が、初めて誰かに寄りかかり、甘えることを知った。

 オリヴィアは全く意識していなかったが、それは間違いなく、大きな一歩であった。

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