第4話 努力は実を結びますわ

 アンディは酷く苛ついていた。爪を噛み、時折がしがしと髪を掻き毟っている。

 理由は言うまでもなく、オリヴィアの変化である。あれ以降、彼女の周りにはさらに人が増えた。平民はもとより、それまで彼女を遠巻きに見ていた貴族たちも彼女と言葉を交わすようになっていた。

「オリヴィアのやつ、……本当にどういうつもりだ」

「アンディ、落ち着けって。もしかしたら本当に変わったのかもしれないぞ?」

「うん、最近いい評判しか聞かないし」

 手のひらを返してそんなことを言うベンとジェイクに、アンディの苛立ちは募るばかりで。拳をドン、とテーブルに叩きつけて、二人を睨んだ。

「呑気なことを言っている場合か? 今僕たちが周りにどんな目で見られているか知っているのか? ララを囲う三人組だと思われているんだぞ!」

 ララ・マクシミリアン男爵令嬢はその言葉に瞳を潤ませ、悲しげに眉を下げて顔を覆った。

「ひどいわ、私たち、ただ仲が良い友だちってだけなのに……そんな言われ方をするなんて! きっとブレイジャー令嬢のせいです。私がアンディ様と仲良しなことを妬んでいるんです!」

 うう、と涙を滲ませ悲観に暮れた声で言う彼女は、非常に強かな少女だった。

 大した力も持っていない男爵家の令嬢は、玉の輿を狙っていた。学園に通ううちに爵位の高い貴族とお近づきになって、ゆくゆくは今よりも高い地位につくのだと執念を燃やしていた。ゆえにアンディからの誘いはまさに、渡りに船だった。婚約者がいるのは知っていたが、相手は「あの」オリヴィア・ブレイジャー伯爵令嬢である。しっかり媚を売ればアンディはオリヴィアではなく自分を選ぶに違いないと思った。

 実際アンディは、ララを婚約者かのように扱った。至るところでエスコートをし、時には花など贈って。距離も必要以上に近く、腕を組んでいることもあった。

「オリヴィアめ、嫉妬からこのような真似を……あいつは自分の立場をわかっているのか!」

 次期公爵家夫人。ジェンキンズ公爵家に嫁ぐ身だ。一生自分に尽くすだけの存在だ。

 それなのに、今の状況はどうだ。あれから更にオリヴィアは、アンディに近づかなくなった。下校時間はもちろん、休み時間ですら目も合わせない。

「アンディ様、私わかるんです。ブレイジャー令嬢はあの平民のルーカスと懇意になってるんですよ!」

「……何?」

「他の殿方とも言葉を交わしているけど、ルーカスはしょっちゅうブレイジャー嬢のそばにいて、寄り道も一緒にしているようだし……絶対、浮気です! アンディ様という素敵な婚約者がいながら、なんて酷い……!」

 アンディの握った拳はぶるぶると震えていた。ベンとジェイクは顔を見合わせて、戸惑った表情を浮かべる。

 変わったのはオリヴィアだけではない。アンディもだ。適当におべっかを使っておけば機嫌が良かったのに、今はオリヴィアのことに関してかなり神経質になっている。

「な、なぁ、アンディ。その、浮気ってんならあれ、出来るんじゃないのか? 婚約破棄」

「そ、そうだよ、あっちの有責での婚約破棄!」

 ぴくりと、アンディの眉が動いた。

 婚約解消の話は何度も出たが、婚約破棄の話はこれが初めてのように思う。アンディにその意思はなかったからだ。自分の言いなりになったオリヴィアをいいように使って楽な生活を送るつもりだった。だが恐らく、今のオリヴィア相手にそれは通用しない。

(なぜ今さら意思を持ったりしたんだ……面倒なことを)

 あのときのまま、自分のためだけに行動する女であったらどれほど都合が良かったか。

 自分に逆らう女は邪魔なだけだ。特に淑女らしい振る舞いや仕草、知識を身に付けた女は従順でなければならない。

 アンディはどこまでも貴族的だった。酷く古い、貴族の思考であった。

「そうだな……いっそ、その方がいい。オリヴィアに思い知らせるためには、……現実をつきつけてやる」

「アンディ様、私にお手伝い出来ることはありますか? アンディ様の力になりたいの」

 健気な令嬢を演じるララの手を取り、アンディは不敵に笑う。彼の脳裏には今、無様に泣いて縋るオリヴィアの姿があった。

(捨てないでと泣きわめくがいい、オリヴィア。きみは僕を侮辱したんだ。公爵家の婚約者でありながら、平民と浮気だと? 許されるものか……!)

 オリヴィアへの怒りを燃やすアンディの隣で、ララはにんまりと笑っていた。

(公爵夫人の座は、私のもの……!)

 ベンとジェイクはそんな二人を見て、曖昧に笑うことしか出来なかった。



*****



 オリヴィアが変わる決心をしてから、半年の月日が流れて。

 その日は学園内で創立を祝う催し物が執り行われていた。大広間では大きなテーブルの上にいくつもの料理が並んで、ぶどうジュースが振る舞われている。学年も身分も関係なく、誰もがその催し物を楽しんでいた。

「オリヴィア、ファニー! このターキーすっごいおいしいよ! 二人も食べな!」

「ベティったら、そんなワイルドに……まぁ今日くらいはいいかしら。オリヴィアのぶんも取ってくるわね、待ってて!」

 ベティとファニーの二人は大きな皿を持って、料理を取りに言った。そんな二人の様子にくすくすと笑い、オリヴィアはふぅと息を漏らす。

「楽しんでますか? オリヴィア」

「ルーカス。えぇ、もちろんですわ。こんなにわくわくしているの、初めてでしてよ」

 ルーカスから差し出されたぶどうジュースを受け取りながら、オリヴィアは笑顔で答える。僅かに渋みの残る、濃厚なジュースを一口飲み下す。しっかり冷やされたそれは雰囲気も相まってか、今までに飲んだどんなものよりも美味しく感じた。

 少しだけ間をおいて、オリヴィアが口を開く。

「わたくし、ルーカスにはとても感謝しておりますのよ」

「おや。何に対してです?」

「ルーカスがいなかったらわたくしは、何も知らないまま孤立していましたわ。きっと、このわくわくする気持ちも知らないまま……はしゃぐ生徒たちを見て、みっともないと嘲笑っていたかもしれない」

 貴族令嬢なのだから。次期公爵夫人になるのだから。

 大声を出してはしゃいだり、大きな口をあけてものを食べたりするなんてあり得ない。こんなことをしている暇があるなら家に帰って勉強に励みたい、などと考えていたかもしれない。

 アンディのために。

「でもあのときあなたが背中を押してくれたから、私は今こうやってこの時間を楽しめてますの。今からターキーにかぶりつこうと思うのだけれど、はしたないかしら?」

「あなたの友人なら誰もそれをはしたない、などと言わないでしょうね」

「えぇ、知ってるわ」

 楽しげに笑う二人のもとに、不意に近づく影があった。顔を上げたオリヴィアは思わず息を詰め、ルーカスはいつもと変わらぬ表情で口元に笑みを浮かべている。

 アンディとララ、それから幾分かバツの悪い表情を浮かべたベンとジェイクが、そこにはいた。

 アンディは何かを企んでいるような、それこそオリヴィアが今まで見たことのなかった表情で立っており、背筋が寒くなる。それでもオリヴィアは表情を取り繕い、笑顔を浮かべて会釈をした。

「ごきげんよう、アンディ様。それにマクシミリアン男爵令嬢にベンさんとジェイクさんも。ごめんなさい、ぶどうジュースを持っているからしっかりとしたご挨拶が出来なくて……」

 ベンとジェイクの二人ははっとした様子で、顔を見合わせた。まさかオリヴィアが自分たちの名前を覚えているとは思っていなかったのだ。

「白々しい芝居を。そんなふうに堂々と浮気をしておいて」

「……浮気……?」

 思わずララへ視線を向ける。浮気をしているのはそちらではないのか、と。ララはさっとアンディの後ろへ隠れ、怯えるような表情を見せた。

「まさかきみが、平民と浮気するだなんてね。公爵令息である僕よりも彼を選ぶ理由が一体なんなのか、さっぱりわからないよ」

「あの、アンディ様? 何を仰っているのか、よく……」

「きみがそこのルーカスと懇意であることは、もうとっくにバレているんだ!」

 周りに聞こえるような大きな声で、アンディが言う。当然、それも彼の作戦のうちだ。オリヴィアを貶めるためにわざとそうしているのだろう。ルーカスは眼鏡の奥の瞳を鋭くさせ、アンディの様子を伺った。

「今までと様子が変わったからどうしたのかと思えば、そういうことだったのか。きみたちの不義は、ここにいるララがすべて僕に伝えてくれた。友人たちとだけならいざ知らず、二人きりで街に向かうこともあったと言うじゃないか!」

 ざわざわと、会場が一気に騒がしくなる。オリヴィアは戸惑いの表情を浮かべて視線を泳がせ、慌ててアンディに向き直った。

「誤解ですわ、アンディ様! ルーカスとはただの友人で」

「ふん、言い訳ならいくらでも出来るだろう。きみのような恥知らず、我が公爵家に相応しくない。よって僕らの婚約は、きみの有責で破棄とさせてもらう!」

 響き渡った声に、辺りは静まり返った。

 オリヴィアの心の中の何かが、音を立てて崩れ落ちる。恋心などとっくになくなって、いつでも婚約解消を受け入れる準備は出来ていた。傷物と言われてもいい。彼の本質を見抜けなかった自分の責任だと思っていた。

 なのにアンディはどこまでも、オリヴィアを貶めたいらしい。

(わたくしの、有責で? それは、本当に……)

「ふっ」

 静まり返ったその場に、笑い声が漏れる。オリヴィアが思わず横を見ると、ルーカスが肩を震わせて笑っていた。

「な……お、お前、何を笑って」

「いえね、前から思っていたんですよ。あなたにオリヴィアは勿体ないなぁって」

 アンディが目を見開き、オリヴィアも驚いた表情になった。ルーカスは眼鏡を押し上げ、涼しい表情で言葉を続ける。

「たくさんの努力をして、貴族令嬢としての礼儀作法、振る舞い、言葉遣いも意識して。成績も常にトップクラス、欠点と言えば周りが見えずに高慢になっていたことくらい。そして彼女はそれまでの自分を省みて変わる決意をした。平民にも貴族にも分け隔てなく接して、わからないことがあれば素直に聞いて、また教えて。彼女がそうやって変わっていく中で、ジェンキンズ令息……あなたは、何をしていたんですか?」

「な、何を……」

「成績も落ちていくばかりで、挙句の果てにはマクシミリアン男爵令嬢と憚らぬ仲になった。そう、婚約者がいるにも関わらず」

 アンディの表情が益々歪んで行く。オリヴィアはどこか他人事のように、こんな醜い表情をするひとだったのか、と思っていた。

「誓って言いましょう、僕とオリヴィアの関係は潔白であると。誰か、僕らがそういう関係だと疑った方はいますか?」

 ルーカスが周囲に向かって声をかけると、誰か一人が「いや……」と言葉を漏らした。

「正直、そういう感じじゃなかったよな。異性の友だちって感じで」

「えぇ、それに二人きりと言うのはほとんど見ていないわ。途中からでも誰かと合流して、街では複数人でいることが多かったもの」

「それにブレイジャー嬢、俺たちともよく話してくれるようになったし……確かにルーカスといることは多かったけど、そんなに気にしてなかったな」

「そうよ!!」

 大きな声で人混みを押しのけて、手にターキーを持ったベティとファニーが眉を吊り上げて言った。

「オリヴィアはあたしらといる時間の方が圧倒的に長かったんだから! ルーカスとそういう関係になってるなら、とっくに気づいてるっての!」

「それを言うならあんたたちこそどうなのよ! 私、あんたがマクシミリアン令嬢の肩を抱いて保健室に入ってくの見たんだから! オリヴィアが傷つくと思って言わなかったけど……ルーカスの言う通り、あんたにオリヴィアは勿体ない!」

 オリヴィアの味方は、圧倒的に多かった。彼女が高慢な態度を改め、努力の結果得たものである。

 胸の奥がじわりと温かくなった。今までこんな素敵なものから目を背けていたなんて、過去の自分が信じられない。本当に何も見えていなかった。大切だと思っていたものの本心も、何も。

「う、うるさいうるさい! 平民風情が、貴様らの証言など証拠になるか!」

「でしたら、私が証言いたしましょう。ジェンキンズ公爵令息? オリヴィアとルーカスの関係は清いものであると、神に誓って申し上げます」

 声を上げたのはヘレナ・オールポート伯爵令嬢だ。今ではオリヴィアとお茶会をするまでの仲になり、貴族令嬢の中では一番親しい関係である。

「ヘレナ……」

「安心なさい、オリヴィア。私たちはあなたが変わったことを知っている。あなたがどうして今まで高慢な態度を取っていたのか、その理由も今は理解しているから」

 だから大丈夫、と微笑まれ、オリヴィアの瞳は揺れた。

 アンディの言葉に怯んでいては、前に進めない。彼の言うがままになっていては、変わった意味がない。そうならないために、変わったのだから。

「アンディ様。わたくしは今まで、アンディ様のためにより良い貴族令嬢になろうと努力して参りました。ゆくゆくはあなたを支える公爵夫人になるために……けれどあなたは、わたくしを利用することしか考えていなかったのですね」

「何よ、開き直ってるの?! そんな態度だからアンディ様に捨てられるのよ! 私の方が絶対、アンディ様に相応しいわ! ねぇアンディ様、そうでしょう? 私と婚約したいって、仰ってたものね!」

 アンディの腕にしがみついて、媚びるような眼差しを向ける。そんなララとは逆に、アンディの顔は蒼白だった。周囲の人間も呆れたような表情を浮かべ、中には笑っているものもいる。

 ララはわかっていなかったが、ララの行動はまさに「不貞があります」と言っているようなものだ。その仕草も眼差しも、全てが。

 オリヴィアはゆっくりと息を吸い、まっすぐにアンディを見据える。

 あれほど慕っていた人が、とてもちっぽけな存在に見える。

 オリヴィアは口角を上げて、にこりと笑う。制服の裾をつまんでカーテシーを決めながら言った。

「婚約から今日にいたるまで、ご不快な想いをさせてしまい申し訳ございません。アンディ様の御心、確かに確認いたしました。オリヴィア・ブレイジャーは婚約破棄を受け入れます。どうぞ書面にて、我が家に申し入れくださいまし」

「うぐ……ぐっ……」

 アンディの手はぶるぶる震えている。

 こんなはずじゃなかった。オリヴィアは泣いて縋るはずだった。

 捨てないで、ごめんなさい、わたくしが悪かったの、と縋り付いてくるはずだったのに。

「た、たかが伯爵令嬢が……僕に恥をかかせて……! いいだろうオリヴィア、父上に言いつけて、慰謝料を請求してやる! 公爵子息の僕をバカにした報いだ!」

 ふふっ、と。またルーカスが笑い声を上げる。当然、それはただただアンディの神経を逆撫でた。

「あぁ、すみません。本当にあなた、何も知らされていないんだなぁと思って」

「何……?」

「ジェンキンズ公爵家は、当主は優秀ですが夫人が酷い浪費家で、いくつもの借金を抱えているんですよ。もうどうにも賄えないくらいにね。あなた、常日頃思っていたんじゃないですか? どうして公爵であるはずの父が、婚約を取り付けるほど伯爵家のものと親しいのか」

 図星である。アンディの家の方が格上であるにも関わらず、アンディの父は何かとブレイジャー伯爵に頭を下げていた。

「理由は……言わなくてももうわかっていますよね。借金ばかりが増えていく中、手っ取り早く金を作るにはどうしたらいいのか。――恐らく近いうちにジェンキンズ公爵家は、破産するでしょう」

「そ……そんな……」

 顔面を蒼白にしたアンディは、がくりと膝から崩れ落ちた。ジェンキンズ公爵家が破産すると知ったララは引きつった顔で後退りをし、ベンとジェイクに至ってはもうそばにいなかった。

 オリヴィアとの結婚がなくなれば、恐らくブレイジャー伯爵家からの援助もなくなる。親しい友人であったとは言え、アンディの振る舞いは見過ごせるものではない。今日ここで起こったことは、間もなく街中に広がって――当然ながら、隠し通せる事態ではなくなっていた。

「う、嘘だ……そんな……そんなこと……」

 一人になってしまったアンディを支えるものは、誰もいない。

 高慢な態度を取っていたのはオリヴィアだけではなく、アンディもだ。オリヴィアが目立っていただけで気づくものは少なかったが、オリヴィアが心を入れ替えると彼の本性はすぐに知れ渡っていた。

(あの場で崩れ落ちていたのは、もしかしたらわたくしだったかもしれない)

 差し出す手もなく、救う人もおらず。

 貴族令嬢であったらどうするか。彼に同情するのが正しいのか、優しさを見せるのがいいのか……答えは。

「アンディ・ジェンキンズ公爵子息様」

 アンディの目が、オリヴィアを見る。そこにいるのは公爵夫人を気取った婚約者ではなく。

「努力は実を結びますわ。どうぞ、頑張ってくださいまし」

 綺麗な笑顔を貼り付け、心のうちを見せない「完璧な」貴族令嬢の姿であった。

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