第3話 はじまりの時間3

「ねえ」

 そう耳元で囁かれて、あまりの気配の無さと吐息の近さに大げさにうろたえてしまった。

「急にびっくりするだろ、普通に話しかけろよ。」

 ごめんごめん、そう言いながら悪びれもなく人を小馬鹿にしたように笑うこの女は俺の同期の【嘉織 カオリ サヤカ】。黙っていればそこそこ容姿はいいんだが、残念なことに内面が伴っていないやつだ。そんなことを知らない男性社員からは意外と人気があるらしいが、俺からしたら理解に苦しむ。友達のいない俺にたまに話しかけに来るとんちきなやつだ。

「ねえ、今日なんか雰囲気違うけど彼女でもできた?」

 どいつもこいつもなぜそんな発想になる。色恋沙汰にしか関心がないのだろうか、そんな暇があるなら仕事しろ仕事。案の定、周りからは妬みや恨みが入り混じった視線がチクチクと刺さってくる。

「彼女なんていままでいたことありませんがなにか?」

 そういうと、ニヤニヤした顔で「だよねー」と言い去って行った。

 嘉織との会話を聞いていたのか、周りの連中もひそひそと話していたが次第にほかの話題に移行していった。全然自覚がないことに対してこれほど周りに騒がれるのはあまりいい気分がしないな。

 この日は終始気分が悪く、仕事集中モードに突入した俺は話しかけるなというオーラを全力でまき散らしていたのだろう。話しかけることはおろか、誰も近づきすらしなかった。


 仕事集中モードを続けるあまり気づけば何事もなく金曜の終業を迎えていた。集中していたので残業するまでもなく、毎日定時に上がることができた。花金ではあるものの何も予定のないこの時間。普段ならまだ会社でパソコンと向き合っている時間だが、急に時間ができると案外困ってしまうのだと思い知った。金曜の夜独特の雰囲気の中、自分だけが世界から隔絶されたかのように浮いていてしまっている錯覚に陥る。あてもなく歩いてはいるが、周りを見渡すとあちらこちらで酒を酌み交わし談笑していたり、真剣な顔をして何やら話していたり、自棄になりながら一人で酒を浴びていたり、様々な世界が広がっている。

 大人の特権だなと思うと同時に、自分もその一端にいるのだなと自覚すると乾いた笑いが出た。まあ、飲みに行くような相手がいないんだけどな。がはは。


 そういえば、明日で1週間になる。彼女は次に来る時までには直しておくと言っていたが、もうできているだろうか。まあ、直っていなくとも明日訪ねてみよう。

 いまから行ける美容院はあるだろうか。最低限の身だしなみは整えてからでないと彼女に失礼だろう。急な予定ができて世界の迷子から解き放たれた気分になり、俺は軽い足取りで帰り道とは反対方向の電車に乗った。


「カランカラン。」

 小気味いい音が店内に響いた。今回は間髪入れずに扉の音の後に声が返ってきた。

「いらっしゃいませ、思ったより早くいらっしゃいましたね。ふふっ。」


 彼女もおそらく俺が来ることを予想していたのだろう。朝の8時というのにしっかりと清掃がされており、テーブルもセッティングされて、万全の状態でお店が開いていた。さすがカフェといったところだろうか。朝が早い、しかし店内を見渡すとやはり俺以外にはお客はいないようだった。


「おはようございます。なんか早く目覚めちゃったんで来ちゃいました。まさか開いてるとは思いませんでしたけど。何時から開けてるんですか?」


「このお店は、来ようと思った人が来る時間には空いてるんです。そういう風にできてるんです。」


 理解が追い付かない俺をよそに、彼女は微笑んでいた。立ち話もなんだからと席に案内された俺は、朝の雰囲気を楽しみながら彼女が出してくれたコーヒーを一口頂いた。


「さて、さっそく本題ですがこちらがお預かりしていたカメラです。ちゃんと使えるようになりましたよ。【コウキ】さん。」


 してやったりな顔でこちらを見ている。確か彼女にはまだ名乗っていなかった気がする。なぜ俺の名を知っているのか皆目見当もつかない。


「あれ、俺名乗りましたっけ?」


「ふふっ、失礼ながら中のデータを見せてもらいました。」


 そういって彼女は、起動したカメラを俺に手渡してきた。中を確認すると、おそらく親父が撮ったであろう俺の子供のころからの写真が所狭しと並んでいた。

 生まれた時から大学を卒業するまで、俺の命名の時の写真まで途切れることなく撮られていたその写真を見て、懐かしさはあったが同時に悲しみが押し寄せてきて自然と涙が頬を伝っていた。


「どうしたんですか!?」


 彼女は、とても驚いた顔をしていた。それもそうだ彼女は何も知らない。知り得ることでもないし、第一出会って間もない相手にするような話でもない。


「いや、ちょっといろいろ思い出してしまって。大丈夫なので気にしないでください。」

 そういうと少しの間があって、彼女は慈愛に満ちた表情をこちらに向けてきた。すると、彼女は何も言わず厨房のほうへ行きコーヒー豆を挽き始めた。この雰囲気の良いカフェでは、静寂の中で響くコーヒー豆を挽く音が一層際立って、乗せられてくる香りとの調和でどんな人間であろうと心穏やかになるだろう。少しだけ感情が高ぶってしまった俺もだいぶ落ち着いてきた。このカフェにはリラックス効果しかないなと思う。

 しばらくすると、彼女がコーヒーカップを二つおぼんに乗せて運んできた。目の前に差し出されたコーヒーカップともう一つは対面の席に置かれた。俺の理解が追い付かず困惑していると、

「ふふっ、面白い顔をしていますね。ご一緒していいですか?」

 断る理由もないので、了承すると彼女は椅子をひいて、俺の対面に座った。

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