第28話 アノヒト帰る
ブラジル戦当日、錠はいつものように正午近くに起きたが、テレビゲームには手をつけなかった。サングラスを手に取り、キャップを深く被って、明るいうちから部屋を出た。
通りに出て、サングラスをかけようとしたときだ。
「ジョー!」
麦わら帽子を被った幼い子供が、歩道の脇に立っていた。
階段を下りる錠が目にとまったか、待ち構えていたようだ。無邪気に両手を上げるその男の子に、錠は見覚えがあった。加瀬にスカウトされるきっかけとなったあの日、竹内との約束を果たしに出かける際にここでぶつかったあの子だ。まっすぐに錠の目を見つめている。キャップを被っていても子供の目線からは丸見えだ。
「フレー、フレー、ジョー!」
子供は嬉しそうに両手を上下させ、声を上げた。錠はその瞳から顔をそらし、自嘲気味に笑った。
子供だからわかってないんだ。〝ジョー〟がどんなやつか、何をやらかしたのか。
いつになく殊勝な言葉が浮かぶ。
でもいつかきっと、この子も気付く。
錠はサングラスをかけ、突き放すように背を向けた。
俺も裏切られたんだ。
苦い記憶が、その背中を正当化した。
錠はいつものコンビニで弁当を二つ買い、そのあと、いつもは行かないスーパーに入って惣菜とビールを買った。
隠れるようにしてマンションに戻った錠は、一階のポストをサングラスのままのぞいた。いくつかのビラを手に階段を上りはじめたそのとき、上から下りてくる足音が耳に入った。錠は警戒して顔を伏せる。
やがてキャップのつばごしに、紳士靴がつま先から姿をのぞかせた。すれ違う相手。その横顔をちらと見た。ハットを被っていてわかりづらいが、どうやら中年のようだ。いぶかしげに錠はその背中を見送った。
「またどっかの記者か?」
錠は何かされたんじゃないかと自分の部屋へ急いだ。
表は何も不審な点はない。が、ドアを開けて内からドアポストをのぞくと、何か入っているのが見えた。
「なんだ、これ?」
封筒だ。サングラスを外し、それを手に取ると、開いたままの口からお札が見えた。錠の一月分ほどだろうか。
まさか――。
錠は荷物を放り、封筒を握りしめて部屋を飛び出した。
確証はない。だが、追わずにはいられなかった。
通りに出て、あの背中の消えたほうへ向かった。しかし、それから先はわからない。鉄道の駅は逆だ。おそらくこのあたりから都心へ向かうのに最も便利なのはバスだ。そう踏んで錠はバス停へ向かった。狭い路地に入り、もう一本向こうのバス通りを目指した。入り組んだ路地の曲がり角に差しかかるたび、あたりを見回す。さながら迷宮に迷い込んだ旅人のようだ。
自分でもどうしたいのか、わからない。いや、それを確かめるために追うのかもしれなかった。
いくつめかの角を曲がると、その先にようやく目当ての通りがのぞいて見えた。普段から交通量はさほど多くなく、バスと普通車の共存がぎりぎりの幅だ。
通りに出ると、ちょうど行き交う車もなく、全体が見渡せる状況だった。右手の先に目をやると、一人の男性が道路を渡りはじめるのが見えた。ハットの中年だ。緩やかなモーションで歩くその先にはバス停があった。
錠は再び駆け出した。漏れる息を抑えながらその背を追った。
だが、男性が渡りはじめた地点までたどり着いて足が止まった。
目には見えない古びた壁が、行く手を阻む。
しかしそれでも、前へと何かの力が作用する。正面は壁だが、うしろは崖であるかのように、引き返すことの意味をその背に突きつける。
錠は壁の向こうをうかがいながら、何かを放らずにはいられなかった。道路を渡り切ったその背中に向かって右手を突き出した。
「こんなものっ……、いらない!」
男性ははたと足を止めたが、振り返りはしなかった。
渡れば渡せる。このわずかな距離を越えさえすれば渡せる。でも動けなかった。まだ踏み出せなかった。壁は高かった。
握りしめて汗ばんだその手は力を抜くことができず、差し出されたまま小刻みに震えた。
バスが来た。車体が二人の間を遮り、停車する。
男性がバスに乗り込んでいくのが窓ごしに見えた。ハットの下の顔は窓ガラスで霞んでいる。錠は、おぼろげなシルエットを息をのんで見つめるしかなかった。
やがてバスは動き出した。
それを待っていたかのように、壁は亀裂を生じ、その隙間から思いを発した。だが、それも遠ざかるエンジン音にかき消されていく。
錠はその場に崩れ落ち、手を握りしめたまま、肩を震わせた。
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