第22話 再びひきこもり ~ 試験 ~ そして就活

〝ベテラン健在〟

〝一次予選突破へ捨て身のダイブ〟

〝ミラクル一文字〟

 オマーン戦翌日、新聞の見出しにはそんな言葉が踊っていた。その一方で、錠への批判も一気に噴出した。

〝レインボー不発! 素人のまぐれだった?〟

〝ピンチ演出、助演男優賞〟

〝ジョーカー(切り札)のジョー 実はババ引いた〟

 以来、錠は以前にも増して部屋に閉じこもりっきりになった。大学の講義には全く出ず、外に出るのは深夜にコンビニに行くときだけだ。電話にも出ない。留守電もたまっていく一方だった。

「もしもし、竹内だけど……。講義に出ないと卒業できないぞ……。飲み会での件は忘れて、また仲良くやろうぜ」

 姉は何度もかけてきた。

「錠、出なさいよ。声ぐらい聞かせなさいよ。就職活動はしてるんでしょうね。もう……」

 今までワールドカップ予選があるからと、うやむやにしていたが、状況は変わった。

 企業に請求したわずかばかりの資料を引っ張り出して眺めてみた。どれも一流企業ばかりだ。この時期、採用者はもうほとんど決まっている。前田たちの言うとおり、注目度最高のときにまわっ

ておけばよかったと内心思った。錠は資料を丸めて、ゴミ箱に投げ捨てた。

 日増しに暑くなるなか、大学の前期試験の時期がやってきた。四年生とはいえ、錠はいくつも講義を抱えている。講義は毎回出なくてもまだなんとかなるが、さすがに卒業のためには試験を避けては通れない。

 試験の数日前になっても錠は講義に出なかった。

 出られるわけないじゃん。

 講義同様、試験もその言葉で片付けようとしたが、留年の文字がちらつく。なんなら中退でもいいやとそんな思いに支配されはじめたが、今度は姉の顔が浮かび、その先に浮かびかけた面倒をかき消すように、

「わかったよ、行きゃいいんだろ。誰にどう思われても構うもんかよ」

 そうつぶやき、必要なテキストを部屋のあちこちからかき集めはじめた。しかし、その日にしたのはそれだけで、あとはいつものようにゲームに手をつけ、朝まで興じた。

 試験の初日、錠は何の準備もないまま大学へ向かった。幸いこの日は一科目だけだ。覚悟を決めてキャンパスに足を踏み入れたが、自然とうつむき加減で歩いていた。

 試験の会場になっている大教室に入るやいなや、錠は大声で名を呼ばれた。

「おう、錠! こっちだ、こっち」

 前田だ。長机の並んだ教室の真ん中あたりに陣取り、振り返って手を上げている。そばには他の二人もいた。前田の大声はいつものことだが、これほど迷惑だと思ったことはない。それでも錠は伏目がちに近寄り、無言で彼らの一つうしろの列に座った。

「錠、ほらこれ、まだ間に合うぞ」

 竹内がうしろを向いてプリントを机に置く。

「……サンキュ」

 錠は小声でそれを受け取った。

 試験が終わったあと、四人は混雑した学食を避け、人気のまばらな外のテラスで昼食をとった。弁当は前田が気前よく買出しに行ってきた。

 錠は竹内らを前に、ただひたすら無言で食べた。たまに話しかける前田の言葉にも空返事ばかりだ。代わって竹内が応じる。

 いつもは毒舌な彼らも、サッカーの件は口にしなかった。三人に会うのは、犬呼ばわりで席を立ったあの日以来のことだ。その件も含め、彼らは何事もなかったかのように普段どおりを通した。

 錠とてその思いを感じ取ってはいたが、同時にどこか屈辱的でもあった。それでも、席を立ち、彼らから離れていく気にはならない。

 錠はあたりを見た。朝からキャンパスにいるが特にこれまでと変わらない。見渡すかぎり学生たちは各々がそれぞれの時間を過ごしている。次第に、あの出来事がなんだかちっぽけなことだと感じられてきた。

 そうだ、たかがサッカーじゃん。

 世間はもうあの日のことは気にも留めていないのだ、そう思えるようになった。

 その後の試験は、結局前田のネットワークの世話になり、何とか全日程を乗り切った。


 試験もすんで大学は夏休みに入った。錠は竹内に背を押され、遅ればせながら就職活動を始めた。竹内自身も手に入れた内定先に満足できず、活動を継続していた。

 その日もうだるような暑さのなか、二人はともに企業をまわっていた。錠は慣れないスーツに、

縁の太い眼鏡をかけている。

「次は松竹電工、ここはいきなり個人面接か」

 竹内が手帳を見ながら言った。錠はため息をつく。

「はあ……。気が重いわ」

「それだけここは採用に対してガチンコだってことだから、大事にいかないとな」

 そこはこの日、二つめの企業だ。錠にとってはトータルで六社めになる。これまでの企業はどこも集団面接で、うち一人は必ず竹内だった。

 面接が終わるといつも、竹内は錠にアドバイスを送った。とある企業で学生同士のディスカッションをさせられたときなどは、錠が受け答えにつまると進んで口を開き、援護をした。

 面接中、心中はアップアップの錠だが、竹内の存在もあって、課題の表情はまずまずだと思えた。どの面接官もあのジョーと知ってか知らずか愛想がよく、感触は良好だった。

 松竹電工の最寄り駅から出た錠は、百貨店のショーウィンドウの前で立ち止まった。奥のミラーに映るスーツ姿の自分。スマイルの練習をしてみる。ちょっと不安になった。

 ネクタイを結び直すその脳裏に、またあの言葉がよぎる。

『どうせ勉強するなら、一流大に行って一流企業に入らないとな』

 錠は思わず顔をしかめた。

「へん、うるせえよ。ワールドカップに出てから言いやがれ」

 時々思い出されるあの場面。ペナルティエリアのやや外、誰かに押されて倒れるさなか、ボールとともに見えた中羽の影。

 ジャマなんだよ、あの野郎。……そうだよ、やつのせいなんだよ。

 時がたつにつれ、錠のなかであの出来事はそう整理されていった。

 目的のビルに入ると、目の前にはスーツ姿の面々が受付に向かって連なっていた。

「この時期にこんなにいるとはなあ」

 受付をすませてからまもなく、企業説明会が始まり、その後面接となった。

 参加者たちは説明会の会場から順に、いくつかある小部屋に案内されていく。やがて竹内が声をかけられ、会場から消えていった。

 とり残された錠は所在無くあたりを見渡した。皆何を思うか、一人で自分の番を静かに待っている。誰かと目が合いそうになり、錠はすぐさま顔を伏せた。

 ほどなくして、錠の番がやってきた。

 案内された部屋に入ると、奥のテーブルに面接官が一人、そしてその前に椅子が一つ置かれていた。

 錠が席に着くと、白髪交じりの紳士が応募書類を見ながら口を開いた。

「君は優の数が少ないねえ」

 錠の成績証明書には優が二つしかない。その二つも、学内でいわゆる楽勝科目といわれている講義のものだ。

 いきなりの直球を受け止めきれず、錠の顔はみるみるうちに赤くなった。

「は……、ですが、私は大学で学業以外の価値ある経験をたくさん積んできました」

 錠は硬い面持ちで、就職雑誌で読んだとおりの言い訳をした。そして、面接官の目を見ながら付け加えた。

「大学の名前や成績がすべてではないと思います」

 面接官は少々驚いたようだが、やがて静かに笑ってこう言った。

「近ごろの学生はみんな、学業がすべてじゃないと言う。他に学んだことは山ほどある、それを見てくれってね」

 錠は床に視線を落とした。

「確かにそれも一理ある。けれど成績っていうのは、やるべきことをやったかやらないかの証なんだよ。一般の大学で優なんて、やりさえすれば取れるはずだからね」

 無言の錠を前に、面接官は穏やかな声で続けた。

「大学の名前で選ぶ、そんなのけしからんと言う。確かに。けれどそれも名前だけじゃなく、やるべきときにやるべきことをやったかどうかの証なんだよ。いいかどうかは別として、いい学歴はいい生活につながる。それをわかって現実と向き合い、頑張ってきた人にはそれなりに報酬がくるんだ」

 錠は顔を上げた。その目がメガネの奥で無意識に尖る。しかし面接官は気にしない。

「人はそんなに差があるわけじゃない。我社はやるべきことをやれる人材を求めている。その上で個性があればなおいい。そういうことです」

 ビルを出てからすぐ、錠は竹内に不満をぶちまけた。

「な、言いたい放題だろ。三流大だと思ってなめてんだ」

「なるほどね……」

 錠の話を聞いて、竹内は困ったような表情でつぶやいた。

「やっぱ慣れてないとなあ」

「え?」

「錠、ここは面接に力を入れてるってことは、名前や成績だけじゃあないってことだろ。きっと錠を試したんだよ。冷静になるべきだったな」

「…………」

「投げ出すなよ、今は就職活動をするべきときだぜ」

 そう言ったあと、竹内は話題を変えた。

「実はさ、これから前田と会うんだ」

 前田はひとまず就活を終え、学生生活を満喫している。

「ふうん。大木は?」

「大木はいないと思うけど。錠はどうする?」

 別に前田に用はないが、一人で帰る気分ではなかった。

「五時前か。まあ行ってもいいけど」

 二人は駅にして一つぶんぐらいの距離を歩いた。

 交差点の先のビルの前、すでに前田は待ち合わせの場所に来ていた。

 信号を待つ間、前田の側に女の子が立っているのが目にとまった。あどけない感じは、大学生とは不釣合いだ。錠は、たまたま近くにいる他人だろうと思った。

 青になった。竹内は小走りで駆け寄る。錠はメガネをはずしながら、のんびりあとを追った。

「遅れてごめん」

「おう竹内、お疲れ。あれ、錠も一緒か。スーツって誰でも着ていいんだな」

「うるせえよ」

 竹内のうしろで、錠は顔を背けた。

「こんにちは」

「待たせてごめんね」

 女の子と竹内が言葉を交わす。竹内は振り返り、錠の表情を見て取った。

「大木の妹、優ちゃん。何日か前からこっちに来てる。これから東京案内するんだ」

 錠は鋭利な目を丸くした。

 大木の妹は挨拶をしようと竹内の陰から出て錠を見た。そのとたん、黄色い声を上げた。

「うわ、ジョーでしょ。あの」

 錠は再び顔を背け、竹内と前田は互いに見合う。

「お兄ちゃんの友達? 錠って、あのジョーだったんだ」

 優は北関東の女子高校生だ。外見は渋谷のコギャルのようには見えないが、やはり世紀末前の、いまどきの少女だった。

「テレビで見るよりいけてるじゃん。あ、スーツだからかあ」

「そっか、優ちゃん知らなかったんだ。あいつ余計なことは言わないからなあ」

「へえ、切り札のジョーが就職活動なんだ」

「ははは、優ちゃん、遠慮ないね」

 さすがの前田も苦笑いだ。錠は少女相手でも変わらない。黙って不機嫌をアピールする。が、大木の妹はそんなものには興味がなかった。

「ね、早く行こう。たまごっち、どこで買えるの?」

 大木はどうしたのかと錠は思ったが、それはそれで都合よく思えた。今は大木に会う気分ではない。

「ねえ、前田くん、あれ何?」

「あれが、新宿の高層ビル」

「へえ、ちょっと写真撮って」

 優は前田にポケットカメラを渡して交差点のほうへ走り出した。そして、道路に背を向けてポーズをとった。

「もうちょっと右、や、優ちゃんからすると左だ」

 前田もカメラをのぞきながら前に出る。

 錠はくだらないものを見る目つきで彼らを見たが、ふと二人の向こうに見える高層ビル群に目をとめた。

 そのフォルムに苦い記憶がよみがえる。

 玲子と付きあって一年くらいのころだった。錠は玲子に別の男の気配を感じるようになっていた。ある日、高層ビルのレストランで食事をしたあと、錠はビルの狭間でその話題を切り出した。

「こないだのあいつか」

「……そうよ」

「……ふうん」

 彼女はうつむき、錠はその向こうを行き交う車の流れをしばし見ていた。

 やがて沈黙を破ったのは錠だった。重い空気を払うかのように一言だけ言った。

「行けよ」

 その後、錠はひとりビルの谷間で一夜を過ごした。あの日からもう会っていない。

 錠は楽しそうにはしゃぐ前田たちの彼方に、去っていく玲子のうしろ姿を見送った。その向かう先が思い浮かぶ。

 東大も名前だけじゃねえってのか。だったら、だったらどうすりゃいいんだよ。

「錠、どうした。つまらなかったら付き合わなくていいけど」

 竹内が気を使いながら話しかける。

「いや、ちょっと、さっきの面接思い出して」

「そのことか。どうなるかわからないけど、まあ、次も頑張るしかないさ」

 錠の表情を見て、竹内は念を押した。

「今は就職活動をすべきときだぜ、錠」

 その言葉から再び面接官の顔が浮かび上がり、錠は口が尖るのを抑えられなかった。

「竹内はもう内定あるじゃん。なんでまだやってんだよ。そこまでしていい会社に入りたいもんかね」

 その瞬間、竹内は下を向いた。

「あのさ、錠」

 竹内は感情を抑えながらも、めったに見せない顔をした。

「俺にだってプライドや意地ぐらいはあるんだ。日本代表になんてなれないかもしれないけど」

 錠は不意に顔をそらし、前田たちのほうに目をやった。

「錠はさ、恵まれてるじゃないか。面接のときだってみんな錠を見てたろ。特に若い面接官はみんな錠を意識しながら話してた」

 錠は竹内に視線を戻した。

「そ、そんなの知らねえよ。俺に言われたって」

 苛立ちを抑えながらつぶやく錠に、竹内も顔を上げた。

「いや……、そりゃそうだよな。錠のせいじゃない。それに錠にはそれだけの理由があったんだもんな。代表に選ばれたのだって……」

 竹内の言う理由とやらには違和感を覚えたが、それ以前に今は代表のことを思い出すだけで気が塞ぐ。錠は大きくため息をもらした。

「すまん、錠。俺、こないだ大木に言われたことがあって、つい……」

「大木に? 何を?」

「竹内はいつも他人のことばっかり気にかけて、自分のことから逃げてないかって。他人の世話することで自分から逃げてるって」

 確かに竹内はおせっかいだ。ただ、それがなくなると錠にとっては困ったことになる。

「ふん、大木はうるせえんだよな。自分はできるからって上から目線でよ」

 しばらく友人たちには気を使っていたが、ここは本音を口にした。

「あいつの内定先、どこだ? 興味ないから聞かなかったけど、どうせ結構なとこなんだろうよ」

「いや。うちの大学のわりにはいい会社だけど、あいつもまだ就職活動は継続中だ」

 錠は意外な顔をしたが、そのあと続けてまた毒を吐いた。

「偉そうなこと言ってる手前、あいつこそいいとこ行かなきゃ格好つかないからだろ」

「いや、違うんだよ。大木は違うんだ」

 竹内は前田とはしゃぎまわる大木の妹を目で追った。

「あいつさ、事情でうちの大学しか受けられなかったらしいんだ。センター試験は受けてて、ほんとは国立も応募してたらしい」

 どうりで頭が切れるはずだ。

「だから今度はさ、就職は妥協できないんだよ」

「ふん、結局同じことじゃん」

 なぜ訪欧大しか受けられなかったのか疑問は残るが、錠はこの件をどうでもいい、そう片付けた。そして、疲れを理由に一人帰途についた。

 この日を機に、錠のやる気はすっかり失われていった。受けた企業すべての結果が出るのを待たず、ゲームに浸る生活に再び戻った。

 やがて、錠の元に松竹電工から結果が届いた。錠は、それを見るなり破り捨てた。どこの企業も送ってくる通知は、判をついたように同じ内容だった。

 就職活動なんてしなきゃよかったんだ。なんで――。

 錠はカレンダーのそばに掛けてあるスーツに向かって目を尖らせた。そして、竹内らとともにそれを買いにいった日を思い返した。

 就活シーズン突入前、しぶる錠を彼らはいつものようにあれこれ言って連れ出した。錠も文句を言いながらも付いていった。

 勧められるままにひととおりセットで買ったはいいが、置き場に困り、袋に入った状態でクローゼットに押し込めた。当分、着る機会もなかった。

 今はよれた状態で、目の前にぶらさがっている。

 なんだよ、意味なかったじゃねえかよ。

 錠はまたしても過去を悔やみ、恨み節を口にした。

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