第1話 その名は?
一九九七年 二月
「しかし、大変なことになりましたね」
褐色のブラジル人は流ちょうな日本語でそう言った。バックミラーごしに、小太りの中年がうしろに乗り込むのを見ながら、遠慮がちに切り出した。
「ふ、ほんまやで。まさかユキヤが怪我やとは……」
中年は座席に体をフィットさせながら、ため息交じりに応えた。
「ほないこか」
ブラジル人は慣れないスーツのしわを気にしながらシートベルトを締め、アクセルを踏んだ。黒い巨体が動き出す。
車は住宅密集地をわびるかのように徐行した。
中年は煙草に火をつけ、顔をしかめてそれを口にした。普段は年の差のわりに気の合う彼らだが、この日は会話も弾まなかった。二人だけの車内に、中年の吐き出す煙と絡み合うように重たい空気が漂う。
やがて車は路地から抜け出し、大通りに入った。ブラジル人はアクセルを踏み込み、沈黙を破った。
「ユキヤ、一次予選はともかく、最終予選には間に合ってくれないと困りますね」
「そりゃあそうや、あたりまえやろ」
中年は投げやりに返した。ブラジル人はたくわえた口ひげをなで、また無言で車を走らせた。
首都圏は、よく晴れているわりに朝から気温は低く、午後になっても寒さは厳しかった。車内は中年にとっては程よい暖房具合だが、普段は厚めのトレーニングウェアで動き回っている南米育ちには少々こたえた。
二人の乗った車は通りを進んで大きな橋を渡ったあと、左折して川沿いの土手を進んだ。右手向こうにはよどんだ大気の下に都心部が見える。左の土手下には河川敷が広がっており、広場やグラウンドが設けられていた。
ブラジル人は話題を探して景色を見渡した。その目にとまったのは、まだ少し先の土手下の様子だった。なにやら大勢で走り回っているのが小さく見える。
近づくにつれ、派手なユニホームの若者たちがボールを蹴り合い、駆け回っているのが確認できた。
「草サッカーですか。楽しそうですねえ」
「なんや、気楽でええな」
中年は嘲笑気味にそう言ったが、やがて何を思ったか車を止めさせた。
「まだ時間あるし、気晴らしに見物してくか」
二人はスーツの上に厚着をして車を降り、土手の上からそれを眺めた。道路から土手下へは芝の茂ったなだらかな斜面になっていて、時折、風が二人に向かって枯れた芝を舞い上げる。
「こんな平日の昼間からサッカーなんてやってんのは大学生ぐらいやろな。ま、あとはうちらか」
「TOKYO……、HOUOUなんとかって書いてありますね」
グラウンド手前のベンチに並んでいる女の子たちの背を見て、ブラジル人が読み取った。
「あっちのはよくわからないけど、なんだかサークル同士みたいですよ」
「訪欧大か。昔、体育会は名門やったけどな。最近はパッとせん。一般の学生も賢いのが集まらんって職員も嘆いとるらしいわ」
広い河川敷も今いるのは彼らだけだった。閑散としたなかに選手や女子マネージャーの声が響きわたる。レベルは中年ら二人から見れば子供同然だった。
「あらら」
「ふん、今度の相手もこんなもんならええんやけどな」
「そうですねえ。ランクはうちが上とはいえ、ユキヤがいないんじゃ厳しい戦いになりますねえ」
「なんやろ、簡単に点が入る方法とかないかいな」
二人はぼやき混じりに見物していたが、やがて自チームのフォーメーションや戦術など、専門的な話になっていった。ひとしきり議論したが、余計に気分が滅入ってしまった。
土手下に再び目をやると、学生選手たちがそれなりにプレーを続けていた。二人は、また試合を眺めはじめた。
「まあこのカテゴリーにしてはいいほうじゃないですかね。頑張ってるんじゃないですか」
「せやけど、あの二十三番はひどいな」
「ああ、そうですね。訪欧大のあのフォワード、僕も彼だけは気になってたんですよ。ひどすぎます」
二十三のゼッケンをつけたその選手は、長めの髪を手で押さえながら、相手のゴール前をうろついていた。オフサイドを取られないよう、最後尾のディフェンダーに合わせて前後に移動するだけだ。ボールが前線にやってきても申しわけ程度に反応するだけで、すぐに敵に蹴り出される。
「あんななら、おらんほうがええで。髪でようわからんけど、ここから見るかぎりじゃ嫌な目つきしとるしな」
「あ、そろそろ行かないと遅れますよ」
ブラジル人の言葉に、中年は時計を見てため息をついた。
そのときだ。土手下に笛の音が響きわたった。反則があったようだ。攻め手から見て右サイド、ペナルティエリアより二、三メートル外。訪欧大のフリーキックだ。
「ここだけ見てくか」
二人はここで意外な光景を見た。キャプテンマークをした選手が、関心無さそうに現場から離れている二十三番に声をかけた。ボールを指差している。二十三番は面倒臭そうな素振りを見せたが、しかし速やかに移動した。
「なんや、あいつが蹴んのかいな」
キャプテンマークの選手が周囲をなだめるそのそばで、二十三番はしゃがんでボールを丁寧にセットした。そして立ち上がると、うしろ向きで測るように五歩下がり、ゴールを見つめて大きく深呼吸をした。
「プレーに似合わんと細かいな」
「なんだかんだで、結構その気みたいですね」
やがて彼は助走を始めた。そしてボールを追い越すほど大きく前方に軸足を踏み込み、蹴り足をゴールに向かって一気に振り抜いた。と、同時にボールはかなりの勢いで舞い上がった。
「なんや、あの蹴り方」
「あーらら、ホームランだ」
二人は思わず吹き出した。
そのスピードと軌道から、明らかにボールはゴールバーの上を越えるはずだった。しかし次の瞬間、誰もが皆、目を疑った。
キーパーの背後でゴールネットが激しく揺れている。ボールはゴールに突き刺さっていた。
しばしの沈黙ののち、土手下から驚きの声が上がった。周囲が求めるハイタッチに知らぬふりをして応じない二十三番も、その表情は得意げだ。
「な、なんや、今の」
「すごい勢いで落ちる、いわゆるドライブ系の――」
「そんなんわかっとる。なんであんなのが」
中年は土手を駆け下りた。そして試合が再開されるなか、ベンチに座っている女の子たちのところに向かった。
「ちょ、ちょいすまんが、今ゴールを決めたやつ、誰?」
「え、さあ、私たちも知らないんですよ。ねえ」
聞かれた女の子は隣にいる子に振った。
「うん。わかってるのは竹内キャプテンが呼んできたってことぐらい。今日、人数揃わないからって」
「そうそう、百発百中の秘密兵器だって」
「百発百中やて?」
「でも遅れて来ちゃって。最初十人だったんだから」
どうやら彼はこのチームの選手ではなく、助っ人のようだ。
「あ、メンバー表にのってないかなあ」
「ああ、そうか。竹内先輩、細かいからこんなの書くんだよなあ」
女の子の一人が記録ノートに挟んであった紙きれを取り出した。
「名前は? 学校は?」
中年はせかすように聞いた。
「学校はうちじゃないかな、東京訪欧大学。名前は……。あるかな?」
そう言いながら彼女はメンバー表に目を通した。
「あった。ゼッケン二十三。何これ? ナガレモト、ジョウ、でいいのかな。うちの三年」
中年はのぞき込んだ。
「――そうか、流本錠か。ふふ、おおきに」
小太りの中年はニヤリと笑うと、やがて土手を上がりはじめた。
「どうしました」
戻ったきた中年を見て、ブラジル人が尋ねた。中年は黙って車に乗り、ブラジル人も続いて乗り込んだ。
「出してくれ」
車は土手を進み、草サッカーから遠ざかっていった。
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