第2話 ひきこもり ある日突然代表に!
晴れた日の正午近くだった。こぎれいな外観をしたワンルームマンション
の一室に、電話のベルが鳴り響いていた。
二階にあるその部屋は、床を弁当の空容器やコンビニの袋に覆い尽くされ
ていて、一階の住民は何も知らずに暮らしていると思うと不びんなほどだっ
た。
「……留守電にしてなかったっけ」
追いやられるかのように部屋の隅に転がっていたジャージが、ゆるりと動
き出した。手を伸ばし、埋もれていたワイヤレスの受話器を探りあてる。
「はい、もしもし……」
「おい錠! 新聞見たか」
「は、誰?」
彼は目を半開きのまま、慌てた様子の電話の向こうに聞き返した。
「竹内だよ、昨日も会ったろ。新聞取ってなかったっけ、お前」
「ああ……。いや、今月から取ってる。日経……、就職活動あるから」
「日経だけか、まあ、小さいけど載ってたな。スポーツ面見てみろ」
竹内は舌の回らない相手にいらつきをにじませながら言った。
「なんだ、いいよ、ボンバだってたまにゃ勝つよ」
「ちがう、代表だよ」
「代表?」
「お前が選ばれてんだよ!」
竹内は叫ぶように言った。
「はあ? なんの代表にぃ?」
彼はふらふらと立ち上がりながら聞き返した。
「サッカーだ、日本代表だ、ワールドカップ予選だよ」
「あ? お前、寝言はやめろよ。あれ、俺が寝ぼけてる?」
彼は目をこすりながら窓の外を見た。屋根の群れがぼんやり波のように重
なって見える。それを目を凝らして捕らえようとした。
「とにかく新聞見ろって。俺、これから企業セミナーなんだ。じゃあな」
そう言うやいなや、竹内は電話を切った。
「おーい……。なんだあいつ」
〝セミナー〟、その言葉に嫌悪感を抱きつつ、流本錠は受話器を置いた。そ
して表へ出ようと、欠伸をしながら玄関のドアを開けた。
「さむっ」
目の前を往来する表通りの騒音とともに、外の冷たい空気が舞い込んでく
る。暖房も昼夜つけっぱなしで、比較的静かな部屋の中と比べ、表は別世界
のようだった。
「うぜえな、あいつも。くだらない冗談はやめろよ」
玄関の外へ出た錠は、通りと平行に続く二階の通路を歩きながら、対面に
建築中のマンションを見上げた。十階もしくはそれ以上であろうその建造物
は、彼の住む二階建てから西の空のほとんどを奪っていた。裏手の古い住宅
街と違い、表通りは開発が進んでいて、彼の住む物件よりもはるかに大きな
建物が増えてきた。
「まあ、こっちの景色は関係ないか。それにしても足痛え。昨日、久しぶり
にボール蹴ったからな。階段、大丈夫かよ」
通りの歩道を走る子供たちが無邪気に追い越していくのを手すりごしに見
下ろしながら、錠は階段を下りた。
一階の集合ポストの自分のところには、新聞の束がぎっしり詰まっていた。
部屋の玄関にドアポストもあるのだが、早朝に物音がするのが嫌で一階に
入れてもらっている。
「そもそも、竹内が取れって言うから取りはじめたんだ。俺にはいらねえっ
て言ってんのに」
一番上のものを引っこ抜いて、錠はまた部屋へ戻った。そしてさっきまで
寝ていた場所に座り込み、レジ袋や空缶の上に新聞を広げた。
「スポーツ面はと……。あるのかよ日経に。俺をからかってあとで笑おうっ
てんじゃないだろうな」
錠はぼやきながら、大雑把に紙面をめくっていった。
「お、あった。ここか。ええとサッカーはと。ボンバ大船って……」
竹内の言葉に半信半疑の錠は、まずはひいきのJリーグクラブの記事を探
した。
「やっぱり、載ってないかあ……。まだプレシーズンマッチだしな」
だが、そのときだった。彼の目に、見慣れてはいるが場違いな文字が飛び
込んできた。
「なにっ」
彼は一瞬我が目を疑った。が、改めて新聞の隅を凝視した。
〝流本錠〟だ。
他の記事に紛れて、特に大きな扱いではないが、
〝ワールドカップ予選、代表メンバー発表〟
〝無名の大学生、大抜てき〟
そんな小見出しとともに、メンバーの一覧に確かに自分の名前があった。
「どういうことだ? なんのいたずらだ? 誰がなんのために?」
錠は頭の中がまっ白になった。
やがて正気は取り戻すも、落ち着かぬまま時計を見た。
「あ、もうこんな時間か。いいとも終わってる」
いつもはお昼の番組に合わせて起床しているが、昨日の疲れもあって寝過
ごした。竹内からの電話は、ちょうどいい目覚まし代わりになった。
錠は取り敢えず昼飯を買いに出かけた。たまには外食しようと思い、入っ
た食堂でスポーツ新聞を手にした。
「載ってるかな」
一般紙と違い、スポーツ新聞は扱いが大きかった。
〝シンデレラボーイあらわる〟
〝エース、ユキヤの代役〟
そこにはそんな見出しが踊っていた。
「代役? あのユキヤの? 俺が?」
〝正体不明――〟
どうやら名前と大学名、学年以外は公表されていないようだ。
錠は帰り際にコンビニに寄り、スポーツ新聞を二つ買った。部屋に戻ると、
留守番電話が入っていることに気付いた。
「えー、もしもし、このたび、君を日本代表に選ばしていただいたんですけ
ど、都合で挨拶が後になってすんません。電話番号は訪欧大OB使って調べ
ました。早速ですけど、ちょうど一週間後から合宿しますんで来てください。
場所は東ヶ丘球技場、時間は昼一時。その前にサッカー協会まで一回連絡く
ださい。電話番号は――」
少しなまっているが、明らかにサッカー日本代表の関係者からだ。
「ふ、ふははは」
思わず笑いが込み上げる。
「俺が代表だって。へへへ、はっはっは」
いい気分だった。ごく平凡な学生で、ごく平凡な生活を送っていた自分が
突如日本の代表に選ばれたのだ。これから就職活動だと思うとうんざりだっ
たのが、いきなりバラ色になった気がした。周囲の勤勉どもがネクタイをし
て街を駆けずり回っているとき、自分は緑の芝の上で日の丸をつけてヒーロ
ーになっている。そんなことを想像すると笑わずにはいられなかった。
ご機嫌な錠だったが、協会に電話をしようと受話器に触れたところで、ふ
と手を止めた。部屋を見渡した彼は、やがてコンビニの袋の山に埋もれたゲ
ームのディスクを掘り起こし、サッカーゲームを始めた。
やり込んだこのゲームはもはや達人の域に達していた。ドリブルさせて相
手が寄ってきたらすぐさまパス。ボールは画面上を次々と流れていく。裏技
もマスターしているので、相手に取られることはまずない。そして確実に決
まる位置まで持ってくると、豪快にシュートを放って点を取るのだ。
この日も得意のパターンでゴールを重ねていった。錠は二度三度と試合を
続けたが、やがて大きくため息をついた。
「俺に、何ができるんだ……」
その日、訪欧大学には取材陣が押しかけ、問い合わせの電話も鳴りっぱな
しだった。学校は春期休業に入っていて、学生たちはほとんどいなかった。
初めは体育会に問い合わせが集中したが、そんな人間はいるはずもない。
次は学生課だった。だが職員も詳しいことは知らないし、一般学生の個人デ
ータを簡単に教えはしない。
謎が謎を呼びフィーバーは加速していった。そんな騒動も、部屋にいた錠
本人は知る由もなかった。
夜になり、錠は竹内に声をかけられて外に出た。場所は近所のレストラン
だ。
「どうなってんだ、何があったんだ」
遅れて現れた錠が席に着くなり、竹内は詰め寄るように尋ねた。
「知らねえよ、俺が聞きたいよ」
「でも、なんでいきなり選ばれるんだ」
「さあ……。昨日二年ぶりにやったんだ。そう、あんとき以来だ」
「へえ、そうか。俺、キャンパスの近く通ったけどマスコミすごかったぞ」
それを聞いて錠は表情を曇らせた。
「俺のこと聞かれても話すなよ」
「え、ああ、そうだな。部屋とか知られたらやばいよな」
「まあ、そのうち収まるだろうけどな」
「そういや、うちの女子たちが、昨日の試合中にお前のこと聞いてきたおじ
さんがいたって」
「おじさん?」
「ああ。あのゴールに感動してたらしい」
「ふうん。ま、あれは俺のとっておきだからな」
錠は得意げにそう言いながら、メニューのカツカレーを指差してウエイト
レスに示した。
「確かにあれは驚くよ。ボールが消えたかと思ったからな。あれって、マジ
で百発百中だったんだ」
「そうだって言ったろ、二年前にもさ」
「おそらく昨日のおじさんってのは協会の、いやたぶん加瀬さんだったんじ
ゃないかな」
「監督の、あの加瀬?」
「ああ、関西弁で小太りだったらしいから」
「へえ。そういや今日電話してきたやつ、関西なまりだったな」
竹内は思わず水を飲む手を止めた。
「なんだおい、アクセスあったのか」
「ああ、合宿来いって」
「へえ、そっか、当然って言えば当然だよな。で、いつ?」
「来週。でも行かねえよ」
「なに、それは辞退ってことか? なんで? もったいない」
「関係ねえよ、ワールドカップなんて」
錠は口を尖らせて言った。そして間をおいて付け加えた。
「就職活動の時期によ」
「お、ついにその気になったか」
錠は無言で水を飲み干した。
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