セットフリー ~アノムコウへ~ ワールドカップ開幕直前編

@daitoaoi

プロローグ

プロローグ 目指すもの

 

 男は窓越しにスタジアムの外を見下ろした。

 波が足元に吸い込まれていく。ゆるやかだが果てしなく寄せる青い波。

 その波は月に照らされ、希望の光を男に返していた。

 男はYシャツの上にスーツを羽織った。そして窓ガラスに己を映し、ネクタイを直すと部屋を出た。

 スタジアム内のスロープを歩きはじめると、彼はすぐに波に飲み込まれた。 

 男はそれをうまく乗りこなしながら、夜でも冷めぬ夏の海のような熱を感じていた。

 男を運んでいた青い波は、左前方に一定の間隔で現れるゲートから漏れる光に、次から次へと吸い込まれていった。

 何度も見ているはずのその先を、男ものぞいてみずにはいられなかった。彼は中に足を運び大きく見渡して目を細めた。

 観衆が鮮やかな緑に彩られた舞台を囲んでいる。そこにいつもの主はいなかったが、夜空をバックに映し出される星々のごとき輝きを仰ぎ見ていた。

 男はもう一度見渡して目を閉じた。

「頼んだぞ」

 歓声にかき消されるほど小さな声だったが、力を込めてそう言うと再びスロープに戻った。

 高揚感を抑えられぬまま男はスタジアムの入り口に向かった。入り口には通路をはさんでテントが設けられていて、来場者へ手渡す応援用のうちわを配布していた。

 男は見慣れた顔に声をかける。

「どうだ山口。順調か」

「あ、課長、じゃなくて部長だ。すみません」

「気にするな。俺もまだ慣れてない」

「ようやく一段落です。しかし大盛況ですよ。お金取りたいくらい」

「ははは、でもそれは言うなって言ったろ」

 男は軽く笑ったあと、ちょっと厳しい口調で言ってみた。

「すみません。日頃のお返しでしたね。クラブ運営が上手くいってるのはサポーターのおかげ、ですよね」

「そうだ。サポーターがクラブを愛してくれるのも、クラブや選手が地域に貢献してこそだよ」

 男は、穏やかな口調に戻して続けた。

「言ってみりゃ山口やスタッフみんなのおかげ。なんだけど、試合中も働いてもらうことになっちゃうな。ほとんど観戦できないだろうな」

 男は頭上に設置されたモニターを指さして言った。

「いや、大丈夫です。ぼくはうれしいんですよ。こんな仕事できて。はい」

「そうか、山口もそう思うか」

 男は嬉しそうに笑った。

「でも、グッズとかサポーターのユニホーム姿、いつもと違う色だから違和感ありますね」

「ああ、山口は初めてだったな。四年前もこんなだった。日韓大会なんて実際にここで試合が行われたからね。人もグッズももっとすごかった」

「へえ、まあ、そうでしょうねぇ。でも部長、目の前で見たら自分もプレーしたくなったんじゃないですか」

「いやいや、俺には無理だよ。それよりも……」

 男はさらに遠くの記憶をたぐりよせた。

「初めてフランスに行ったときのことを思い出したな。スタジアムまで迷ってね。いや、実際は約束の、そう待ち合わせの場所までなんだけど」

「フランス? それってひょっとして」

 男は小さくうなずいた。

「一人だったし、不安であせってたからなんだろうな。見知らぬ街で尋ねた相手とコミュニケーションをとれなくていらついたり、迷うのも街並みのせいだとか思ったり。標識もあまりないし、複雑に思えた。地図もなんてわかりにくいんだとかね。世界一のイベントなんだからわかりやすく工夫しとけよって。多分それまでだったらあきらめてたかな。でもどうしても行かなきゃならなかったし、行きたかった」

 テンションの上がった男に対し、山口はにやけながら耳をかたむけていたが、気づいたように口を挟んだ。

「それが今の仕事に活きてるわけですね」

 男の口がいったん動きを止める。

「……そうだな」

 そう、あの経験がなかったら――。

 男は感慨深げにもう一度うなずいた。そしてモニターに映る彼方に渡った勇者たちを見上げた。

「さっき、監督が入られましたよ」

 山口が同じものに見入りながら話題を振った。

「そうか。あとで俺も行こう」

「いつも厳しい顔してますけど、今日はなんか楽しそうに見えました。気のせいですかね」

 フランスで待ち合わせたその顔を思い浮かべ、男は口元を緩めた。

「ふ、あの人もほんとに楽しみにしてただろうからな」

「なんたってうちのエースもでますしね」

「ああ、うちから代表なんて四年前はいなかった。本選の代表をだすのはひとつの夢だったからな」

「しかも十番だなんて。期待しちゃいますね」

 そう言ったあとで、山口はふと表情を曇らせた。

「でも不安もあるんですよ。あいつ、優勝しますなんて言うから、ネットで結構叩かれて……」

 これまで箸にも棒にも掛からなかったワールドカップの優勝を口にした代表チームのエースに対して、大口たたくなという声も広くあった。

「なんか逆にこっちが緊張しちゃいますよ」

「確かにな。だけどな……」

 男はもう一度モニターを見上げ、その先に思いを飛ばした。

 ――優勝なんてできないって思ってたら、いつまでたってもできないだろう。俺たちだって、苦闘しながら誰も見たことのないあの向こうを目指したんだ。そして虹をかけた。皆で壁を越えてな。

 男は目を閉じた。会話のなかで断片的に浮かび上がってきたシーンがつながれていく。それに引き込まれるかのように、彼は一気に時を巻き戻した。

 誰もが、まだ見ぬ世界を目指したあのころに――。

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