第2話

「えっと……」


 ろくに櫛も通してない焦げ茶の髪を掻き乱しながら、黄橋きばしの兄貴は俺に言う。

「マミー?」

「ミイラと、言ってくださいよ」

 額・左腕・左脚は包帯に覆われ、手足はそれぞれ吊られていた。

 干支一回り年下の友人が、ベッドの上でそんな見た目をしていたら、そんな指摘をしたくなるのかもしれないけれど、何となくマミーは……。

「じゃあ、アカサクな」

「マミーで。それならマミーで。マミーのが数倍マシです」

 ヌケサクみたいで嫌だと、何度言ってもこの人はやめない。

 赤澤作之助あかざわさくのすけ、だからアカサク。

 知らんがな。なら、マミーのがマシだ。

「……そうか、嫌か」

 黄橋の兄貴にしてはらしくもなく、静かな声でそう言うと、ベッド脇にある丸椅子へ許可もしてないのに腰を下ろした。

「ちょっと兄」

 貴と、注意しようとしたが、これまたらしくもない暗い顔に、口を閉じるしかなく。

 兄貴の視線は、湿布が貼られただけの俺の右手に注がれた。

 怪我は左側に集中し、右側のほとんどは打撲と擦り傷のみ。この右手も捻挫で済み、そろそろ湿布をしなくてもいいかもしれないと言われている。

 それを聞いた時はほっとしたし──それ以上に少し、恥ずかしくなった。

 右手を布団の中に隠しながら、病室の扉に視線を向ける。廊下の外の雑音が聴こえてくるが、誰か入ってくる様子はない。それでも視線はそのまま、兄貴が話し出すのを待つ。

「……ここには誰もいないな」

「……はい」

 俺がいるのは個室。何の説明もなかったら目を覚ましたその日に帰っていたけれど、入院費と治療費は、完治するまで大人しくすることを条件に、別の人間が払ってくれるらしい。

 具体的にいくらになるか知らないけれど、こんな清潔な所に何日もいられるほど稼いでいない身としては助かる。……でもやっぱり、情けなくもある。

 これは手切れ金なのだそうだ。

 あの日のことは町で噂になっており、一枝ちゃんが夜中に俺を部屋に招いて朝まで楽しんだものの、起きてきたご両親に見つかりそうになり、窓から逃げようとした俺を突き飛ばした、ということになっているらしい。

 事実と全然違うけれど、あの現場には最悪なことに、一枝ちゃんが俺を突き飛ばす瞬間を目撃した人間がいて、そいつが面白おかしく吹聴して回っているせいで、今やそっちが真実になった。

『嫁入り前の娘にそのような噂が立ったことを、旦那様は当然お許しにならず、お嬢様は遠くの親類の元に送られました。戻られることはないそうです』

 入院中の金の話と共に、一枝ちゃんのことも教えてくれたのは、彼女の家で働く女中さんだった。

『こちらを退院されましたら、すぐにこの町から出ること。それも旦那様からの条件です』

 別途引っ越し代も用意されているとのことで、こんな俺の為にそこまでしてくれるとは、彼女を嫁にもらえていたらきっと優しい舅になってくれたろうに。

 残念だ。

 残念で……情けない。

「サク」

 兄貴に名前を呼ばれても、扉から視線を離さない。

 許されるなら、布団を頭から被りたい気分だったけれど、そんなことすればすぐに兄貴に剥ぎ取られるだろう。というか、今のこの身体じゃ無理か。

「あのな、サク」

 何かを言いにくそうなその声に、ほんのり不安になってくる。

 兄貴は何を言いたくないのか。

「……待っていても、来ないぞ」

「へっ!」

 何を考えていたか、忘れ、思わず兄貴を見た。

「……え?」

 兄貴の顔には、何もない。

 色のない表情で、じっと俺を見つめる。

「    」

 口が動くのは見えた。でも何て言ったのかは聴こえない。

「あに、き」

 聴こえなかったはずなのに、何て言ったんですか、と最後まで続けられなかった。


「だから、青柳あおやぎが死んだ」


「……」

 あぁ、だから今日、兄貴は一人だったのか。

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