戦線に異状なし
少年は走った。
掌に小さく畳まれた紙切れを握りしめて。
これは与えられた最後の命令であることを悟り、目に浮かべる涙を着物の袖で拭いながら懸命に足を動かした。
少年の属していた部隊はもはや壊滅状態にあり、日々目を覚ませば昨日まで背中を預けあった仲間が荷物を残して消えている有様であった。
そんな散々な部隊を寄せ集めて作られた小隊も、会敵する度に壊滅の二文字を掲げ、這う這うの体で自陣へ戻るのがやっとの状態だった。
とうとう年端のいかぬ少年たちには帰郷が命じられ、少年にもその命は下ったが最期まで運命を共にすると腹に決め、この日まで砲弾飛び交う戦場へ足を向けていたのだ。
しかし、討てども討てども芳しい戦績の上がらなくなった敗け戦のなか、ある日の晩少年はかの男に寝床へ呼び出された。
床へ向かうと男、全隊の指揮を取っていた男は少年へ紙切れと刀を一本持たせ、
「俺の故郷に届けてくれ」
短くなった髪を撫で、よく似合う軍服の裾で鼻を擦りながら小さな声でそう言った。その姿はかつての猛々しい獣のような男の姿ではなく、死に場所を求める亡霊のような、頼りなく弱々しい姿だった。
戦場では少しも隙を見せず、先陣を切っては己の命を命と思わぬような無謀ともとれる突撃を繰り返す、軍神と呼ばれた男はこれほどまでに人間らしいものか、とその場に居合わせた人間がいたならば少なからず面食らっていたことであろう。
「嫌です。私は最期までついてゆきます」
少年は男の頼りない様相に、驚きが隠せなかったが心を曲げようとしなかった。
「俺はお前のことを弟のように思っている。わかってはくれないか」
「私も実の兄のようにお慕いしています。だからこそ」
「その刀は俺の武士としての魂だ。こんなところで捨てゆくわけにはいかない、お前に頼む他ないんだ」
男も一度決めたことを曲げることはできなかった。
「置いてきたらよ、薬もらって戻ってきたらいい。いいか、夜が明ける前に出ろ。それとその紙は落とすな、中身は見てもいいが少しも溢すな。もし溢したらお前の戻る分隊はないと思え」
抗議の声を上げようとする少年に静止をかけるようにそう残すと男は少年に背を向けて床へつき、間もなく鼾をたて始めた。
少年は与えられた命令と向き合うようにその背中を向いて暫く黙り込み、やがて何か決意を固めたような強い意志を秘めた瞳をかっと見開いて、
「ご無事で」
と一言呟き、うす暗い寒空へ駆け出した。
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