短編文庫

黒川魁

おはよう

「ただいま」

授業を終え十二時間ぶりに家へ帰る。雪にさらされ芯まで冷え切っていた体が暖房によって十分に暖められた室温で溶けるように感覚を取り戻していくのを感じる。返事は返ってこないが濡れた手袋や靴下、コートをそこらへ放ると廊下に足跡を残しながら居間へ入った。

「なんだいるんだ母さん、返事くらいしてよ」

四人掛けのソファの端に腰を下ろし、リラックスした様子でテレビの方を向いている母の背中に声をかけると、母はこちらを振り向かずに小さな声で答えた。

「おかえり、アキラ。今ね、お父さんが寝てるからあまり大きい声を出したくないのよ」

「そっか。今日は父さん帰ってくる日だったんだ」

どうやら母の隣で父が横になっているらしい。父は遠距離ドライバーをしていて家を開けている日が多いが、帰ってくる日は母とこうして言葉の通り四六時中寝食を共にしている。

「外、寒くなかった?雪降ってたでしょう。風邪ひくからお風呂入っちゃいなさい」

「ううん、大丈夫。父さんが起きてからでいいや。母さんだってずっとそうしてるんだろ。お茶でも淹れてくるよ」

「そう。なら着替えくらいしなさいね。帰ってきたばかりなのに、ありがとう」

「うん」

湯を沸かしているうちに制服を脱ぎ、部屋着に着替えて戻ると少し吹きこぼれていたが母はソファから動いていないし拭っておけばバレないだろう。

父に最後に会ったのは大学受験の一週間前だ。気が立っていたのもあり父の些細な言葉が琴線に触れ、俺は父と掴み合いの喧嘩をした。俺が悪い、それは誰から見ても明白だったが結局謝ることもできないどころか互いに顔も合わせず父は発ってしまっていた。

次に会ったら謝ろう、そう思っていたが実際にその時がくると胃がきゅっと絞られるように痛む。

いつもの三倍ほどの時間をかけ紅茶を淹れ終えると、できるだけ物音を立てずに居間へ戻る。ソファとテレビの合間にあるローテーブルに盆ごと置くとソファを背に体操座りしてその時を待つ。

「お父さん、別に気にしてないと思うよ」

母の慰めの言葉にますます小さく背を丸める。

「でも、俺の気が済まないからだめ」

そして間を持たせるために、と素朴な疑問をぶつけることにした。

「ね、母さんは父さんの何がそんなに好きなの?年も離れてるしさ、いつも家に居てくれないし。もっと良い男なんてそれこそ星の数ほどいただろ」

母は思案しているのかしばらく間を空けて言った。

「そうね……。確かにもっと育児に協力的で、たくさん稼いでくれる顔の良い男は世の中にたくさんいたかもしれない。でもね、私の隣でこんなに幸せそうに眠る人はこの人だけだったのよ」

母の言葉から感じるものはただ深い愛、それだけだった。思わず触れた母の感情に体温が上がっていくのを感じた。

「あら」

母の間の抜けた声のあと、巨体がソファからのそりと影を伸ばした。

「そんな話されちゃ起きるに起きれないじゃないか」

「おはよう、父さん」

「おはよう」


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