第32話 やどり木亭の薬草園
「マリアンヌ、マリー、僕は庭を間違えたのかな?」
つい先ほど、やどり木亭へ出勤するために自宅を出たはずの父セルジュが、狐につままれたような顔でリビングに戻ってきた。
『家を間違えたのかな』とかであれば、前世でも、ドラマや酔っ払い事件の小ネタなどで聞いたことがあるセリフだが、『庭を間違えたのかな』とはなかか新鮮だなと思いながら、マリーはハッと思い出す。
きっとあれだ。マリーが昨日植えたハーブのことに違いない。バジルソースに浮かれて、すっかり伝えるのを忘れていたのだ。
昨日はマリアンヌは昼から宿にいたはずだし、セルジュも午後に会合が終わって、そのまま夜まで宿にいたので、庭の様子は知らなかったはずだ。
「あ、そうだ!わたし、パパとママに言わないで、昨日ね、勝手にお庭に薬草を植えちゃったの!ごめんなさい!」
「え?僕のマリーが?」
「うん。昨日お休みで薬草を採取したから、お庭で育てられないかなと思って。その、勝手にごめんなさい!」
すっかり浮かれていたマリーは、両親に許可を得るなどということもすこーんと忘れて、勝手に植えてしまったのだった。
前世のOL時代、根回しの大切さを嫌と言うほど痛感していたのに大失態だと青くなるマリーだ。
「ああ、マリー、そんなことはいいんだよ!なるほど、薬草を採取できるだけじゃなくて、庭に植えることまで考えつくなんて、僕のマリーは天才だよ!」
セルジュが慌ててマリーに駆け寄り、安定の親馬鹿ぶりを発揮しながらぎゅっと抱きしめ、顔をグリグリと、頭に押し付けてくる。
「マリーがどこに何を植えても、もちろん問題ないとも!ただ、植えた薬草はどこかから移植したのかい?」
「ううん、摘んできた薬草を挿し木にして、わたしが植えたのよ!葉を触ったらいい香りがするから、パパも触ってみてね」
しかし、セルジュのどうにも腑に落ちないという表情に母が尋ねる。
「あなた、どうかしたの?」
「ああ、庭がね、その……薬草園なんだ」
「「え?」」
「実際に見てもらった方が早いかな」
そう言って3人で庭に向かってみれば、マリーが昨日挿し木にしたばかりのハーブたちが、植えた辺り一面にわっさりと茂っているではないか。
幾つかの畝に植えたラベンダーは紫色の小さな花をしっかりと咲かせているし、1つの畝に植えたバジルは大人の腰の高さほどまでに育ち、青々と葉を茂らせている。
タイムとセージもカモミールも、挿し木にしたものが、マリーの腰丈くらいまでの大きさまで育っている。おまけにカモミールは、わさわさと広がる枝に、白い花弁と黄色い花芯の可愛らしい花が、風にゆらりと揺れていた。
その他にも、昨日の午後に挿し木にしたばかりのハーブたちが、ことごとく立派に育っているのだ。
「はえ??」
思わず、変な声を発してしまったマリーだった。
「昨日の朝、家を出るときは何もなかったのに、今朝の庭は立派な薬草園だろう?だから、庭を間違えたのかと思って」
さすがに「自分の家の敷地内で庭を間違えるも何もないだろ!」と突っ込むほどの余裕は、今のマリーにはなかった。
「あら、ほんと!すごいわね、薬草園だわ!ふふ、かわいらしいお花まであって素敵ね!」
「…えーと?移植じゃなくて、(昨日は15センチくらいの枝を挿し木にしたんだけど…)もしかしたら、昨日採取した薬草は、ちょっと特殊な場所で育った薬草だったからかな?いわゆる、特別仕様って感じかも?」
予想していなかった事態にちょっと驚いてしまったマリーだったが、ものの数秒で意識を立て直すことに成功する。
“異世界パワースポット”もとい、“薬草の聖地”関連の出来事には、昨日の“光の柱”や“ 異世界パワスポ効果特典”らしい“水やり機能”などで、もう十分に驚かされているのだ。
ちょっと、いや、だいぶ驚いたものの、一晩明けた今「ふむ、こんなものなのだろう」と受け流そうと思えるくらいには学んだのである。
マリーは、学習能力だって人並み程度にはある12歳なのだ。
「へえ、そうなのか。それはすごいな!僕のマリーはやっぱり天才だね!!」
「ええ、薬草って貴重なものって聞いていたけれど、さすがに育ち方も他の植物とは違うものなのねえ!」
そんなことはない。薬草も、普通なら、育ち方は他の植物と同じだ。ただ、その誤解を解ける者はここにはいないのである。
相変わらず、セルジュは親馬鹿でマリアンヌは余裕…いや、マリアンヌについては器が大きいのか天然なのか、ちょっぴり微妙なところなのだが。
「そうみたい。あ!そうだ、あのね、この薬草って、お水もあげられるんだよ!パパ、ママ、見てて!」
そう言うと、マリーはハーブの前に移動して、おもむろに両手を広げて顔を少し上げるポーズをとった。マリーの中の、前世のマリア像のイメージである。
「コホン!ハーブがよく育つように、ハーブが大きくなるように、ハーブの薬効が高まるように、お水をあげて!」
昨日は別々に試した言葉を、今日は一つにまとめて唱える。すると薬草が植わっている辺り一帯に、昨日と同じ柔らかな霧雨状のシャワーのような水が降り注いだ。
小さな水滴に朝の日差しが反射してキラキラと宝石のように輝き、その光景は思わず見とれてしまうほど美しい。
(よ…よかった…こんなポーズまでキメて、何も出なかったら恥ずか死ねるところだったよ!)
昨日ぶりの、“ 異世界パワスポ効果特典”らしい“水やり機能”の実践だ。今日も“作動”するかわからなかったにも関わらず、つい子ども意識が強めになってポーズまでキメて始めてしまったのだ。『こんなポーズまでキメといて、もし何も出なかったら!』と内心焦ったマリーだったが、無事に機能が作動したことにホッと胸をなでおろす。
まあ、例えそうなっていたとしても12歳のマリーだ。微笑ましく思われるだけだろう。マリーの心が耐えられないだけである。
「まあ!マリー!なんて素敵なの?それにあなた、魔法使いみたいだったわ!ふふふ!」
「ああ!ここから見ると、僕のマリーがキラキラとした光に包まれているようで、まるで神々しい女神のようだったよ!僕のマリーは天使ではなく、女神だったんだね!」
正しくは聖女である。
天使でも、女神でもない。聖女である。
がしかし、まだマリーが聖女であることは、本人すらも知らないのだ。両親が気づかなくても致し方無いことだろう。
「えへん。そうでしょう?魔法使いみたいでしょう?でもこれはね、魔法じゃないんだよ。特別な場所で取れた特別な薬草についている、特別な効果?特典?特別仕様なんだよ!しかもね、水は、薬草に必要な分量だけが与えられるオート機能…自動で調整までできるみたいなの!すごいよね!!」
と、異世界のパワスポ効果をドヤ顔で説明するマリーだった。…が、本当はマリー自身の聖女の力、聖なる力が成せる奇跡なのだ。
少し魔法や薬草に詳しい者が聞いて入れば、「特別仕様?そんなものあるはずがないだろう!」と即座に否定しただろう。
“薬草の聖地”でしか採取できない=聖地でしか育たない貴重な薬草もあるのだ。それを民家の庭先で育てられること自体が普通では無いのだ。しかもそれが一晩でこんなに茂るなんて、もはや神の加護か奇跡によるものだと、大騒ぎになってもいいほどの出来事なのである。
しかし、セルジュもマリアンヌも、マリーも、あいにく魔法にも薬草にも(異世界パワースポット事情にも)、ほとんど知識はなかった。
おまけに、セルジュは、宿を継ぐ前は絵を描くことしかしていなかったし、マリアンヌはそこそこ裕福な家庭で育てられ、女性の嗜みとして教えられた刺繍や裁縫ができる以外は、平民としては珍しいほどの箱入り娘だった。
そんな二人と、そんな両親に育てられたマリーは、それなりに、十分な世間知らずなのだった。
そんなわけで、マリー一家は何の違和感もなく、実はものスゴいことである薬草の一件を、「うちのマリーはすごい!」で済ませてしまったわけである。
そんなこととはつゆ知らず、マリーはちょうど良いので、ラベンダーのサシェについても両親に話すことにする。
「パパ、ママ、それでね、この紫の薬草をポプリにして、サシェを作ろうと思うの!」
「これを使うのかい?」
「あら、とても良い香りね」
「そうでしょう?この薬草は、心と体をリラックスさせてくれたり、心を落ち着かせてくれるんだって。サシェを作って宿のお部屋に置いたら、お客様がリラックスして疲れも取れるし、よく眠れるかなって思って」
「ああ、マリー!君はなんて優しいんだ!確かに、マリーが作ったものなら、それだけでみんな癒されて心安らかに休めるよ!」
「そうね。お客様にも快適に過ごしていただけそうだし、とても素敵なことね!マリー、素晴らしいアイデアね!」
「それにね、この薬草は、悪い菌や虫除けの効果もあるんだって。旅をしてると外を移動することも多いし、野営することもあるでしょう?そうすると、病気になったり虫に刺されたりするかもしれないでしょう?
だから、お部屋に置くサシェは、お泊まりの記念として持ち帰ってもらえるようにしたらいいと思うの。サシェを持っていたら、病気や虫からも守ってくれるかもしれないから!
それに、サシェを持ち歩いていたら、この香りを嗅ぐ度にやどり木亭を思い出してくれるかもしれないよ!」
そう、前世でラベンダーは万能ハーブと言われていたのだ。
そして、ここは魔法のある世界である。昨日から先ほどまで、しっかりマリーを驚かせてきた“異世界パワスポ効果”とやらを、こういうところでこそ遺憾なく発揮してほしいものだよ!と思うマリーだった。
ちなみに、“異世界パワスポ効果”とはマリーが勝手に思い込んでいるだけで、正しくは、マリーの聖女の力である。
「ああ、マリー!!!マリアンヌ、君と僕のマリーは素晴らしいよ!こんなに、誰かのことを考えられる優しい娘に育ってくれて、パパは感激だよ!
これまでは、マリーは天使だと思っていたし、さっきは女神かと思ったけれど、そんなお伽話のような存在じゃない!マリーは、もしかして聖女様なんじゃないのか?」
「本当にそうだわ!お客様に快適に過ごしていただくだけじゃなくて、宿を出発した後のことまで考えているなんて!
お客様は、あなたから直接その言葉を聞かなくても、サシェを通してあなたのその想いを感じられると思うし、そうやって一生懸命考えてくれたことを嬉しく感じられると思うわ。
私たちの小さな小さな天使だったあなたは、いつの間にかこんなにも人を思いやれる、とても優しい聖女様になっていたのね…」
………正解である。
“僕の天使”、“私の天使”という類のものではあるとはいえ、曲がりなりにも、なんと初めての正解である。
そう、マリーは聖女なのだ!
まだ本人も自覚していないし、聖なる力も、今はほんの僅かに解放されただけとはいえ、紛れもなく、マリーは正しく聖女なのである!
感激した様子で、涙を浮かべながらそう話す両親を前に、こちらは困惑気味のマリーだ。
マリーはただ「ラベンダーがあったよ、ラッキー!よーし、じゃあサシェとか作ったら良さそうだよね!お客様喜んでくれるかもだし!それに、異世界パワスポ特典付きなら効果も高そうだから、虫除けとかめっちゃ効きそうだし!」くらいの気持ちだ。
感激されるほど優しいつもりもなければ、“聖女”と言われるような崇高な精神など欠片も持ち合わせていない。
(いやいや、パパだけならともかく、ママまで、なんてこと言い出してるの?!そんなわけないでしょ!仮にも聖女様だなんて、親馬鹿なパパが外で言い回って、まかり間違って不敬罪とかなったら大変だよ!)
ここは訂正すべきだよね!と大きく一つ頷いたマリーは、セルジュとマリアンヌの軌道修正を試みることにした。
「やだなぁ、パパ、ママ。ちょっと大袈裟だよ?別におうちのお庭でとれた薬草を有効活用するだけだもん。そんなに大したことじゃないよ?…それに、聖女様だなんて、さすがに不敬だって怒られちゃうよ?大体、こんな田舎の平民が聖女様なわけないでしょ!」
「ああ、マリー!!僕の聖女は、なんて謙虚なんだい?」
「まあ、マリー!!私たちの前では遠慮なんてしなくていいのよ?マリーはやどり木亭の聖女様だもの!」
前世の元OL時代、会議で議題から度々脱線しかかる上司を、さり気なく軌道修正していた経験を活かそうと両親に訴えるものの、全く聞き入れられることはなさそうだ。
満面の笑みで「あははは」「うふふふ」と微笑み合う両親を前に、マリーは前世のスキルを活かせなかったことを悟った。
それに、マリーには残念なお知らせになってしまうが、そもそも今回に限っては、セルジュとマリアンヌが正しいのである。マリーは聖女なのだ。無自覚なだけで。
まさかのタイミングで、まだ誰も知らない事実“マリー聖女説”の誕生である。
(うん…ちょっと無理そうだね。まあ、仕方ないか。どうせそんなことがある訳はないんだし、もし誰かの耳に入ったとしても、ただの親馬鹿だって流してもらえるよね。それに「やどり木亭の聖女様」なら、不敬にはならないかな… せめて、家の外では言わないように頼んでおこう…)
まあ、無自覚なだけで、マリーは正しく“聖女”なのだ。自覚をして使おうと思えば、聖なる力だってすぐにでも使えるのである。ゆえに、不敬とされることはないだろう。ただただ、大変な騒ぎになるだけである。
「…パパ、ママ、そんなふうに言ってくれてありがとう。嬉しいな?でも、恥ずかしいから、そういう話はお家の中だけにしてね?外では、そんなこと、絶対に、言わないでね?」
「おや、僕のマリーはそんなに恥ずかしがり屋さんだったかな?」
「まあ、マリーったらそんなこと言って。もうそんなお年頃なのね!」
マリー一家は、いや、マリーの両親は、今日も大変に平和なのだった。
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