最終章


「見て、藤之助ふじのすけ。藤の蕾、もうすぐ咲きそうだよ」

 そしたらまたお花見だね、と藤之助が横たわる布団の傍に腰かけて、織羽おりばは微笑む。そう言われた男は小さく頷き、ゆっくりと首を傾けて外を見た。


 隆々と伸びる枝の先に、細かい産毛に覆われた蕾の房が垂れ下がっている。それはほのかに白く色付き、風に揺れる度に今にも綻びそうだった。


 藤之助は不意に、庭の方に手を伸ばす。すると不意に細くやつれきった白い自分の手が目に入ったのか、彼は苦笑した。


「もう饅頭も酒も、口にはできないがな」


 それを聞くと織羽は二の句が継げず、困ったような顔で黙り込む。布団に横たわっている男はおもむろに腕を上げると、どんよりと沈んだ空気を放つ金縁眼鏡の青年の鼻を指で挟んだ。

 織羽は、やめろよ、とぎこちなく笑うが、その心は重く沈んだままだった。

 摘ままれたところが、まったく痛まなかったのだ。


 藤之助の身体はいよいよ病にむしばまれ、もはや床の上で身体を起こすのが精一杯になっていた。いまや訪ねてくる織羽と言葉を交わすのもやっとの状態だ。

 日に日に弱っていく友人の姿を、なす術もなく見守ることしかできないことが織羽には悔しくてならなかった。――どうして彼が、こんなに早く生涯を終えなければならないのか。青年は藤之助を連れて行かんとする死の運命を呪った。


 だが織羽の思いとは裏腹に、藤之助は穏やかな様子だった。まるでその定めを全て受け入れているかのようだ。

 彼にはそれが恐ろしかった。ここ数年、心に巣食っていた不安がいよいよ現実のものになるような気がしてならなかったからだ。


(――藤之助、何処にも行かないでよ)

 

 織羽はいつまでも白藤の木を見つめている友人の手をそっと握ると、そう心の中で呟いた。


 すると何かに勘づいたように藤之助がこちらに向き直る。


「お前はやはり、すぐ泣くな」


 そう言って笑うと、彼は大粒の涙をこぼす織羽の頬に触れた。青年はとうとうこらえきれず嗚咽おえつを漏らす。藤之助は上半身をゆっくりと起こすと、仕方ないな、とその目元の水気を拭き取った。その優しげな眼差しが、思わず青年の笑みを誘った。

 しかし、それさえも織羽にはかけがえのない親友に迫る死の刻限を目の当たりにしているようで、胸が苦しくなった。――近く、涙を拭うこの手の温もりに触れることはできなくなる。


「君は、やっぱりおれを置いていくんじゃないか」


 震える声で発せられた織羽の言葉に、藤之助は、そうだな、と静かに応える。

 その様子に青年は唐突に怒りを覚えた。――なぜ自らの死に際しても落ち着き払っていられるのだろう。どうしてもっと取り乱したり、喚いたりして、その運命に抗ってくれないのだろう。

 

 同時に襲い来る様々な思いに、もはや滅茶苦茶になってしまった感情をどう御していいかわからず、織羽は悲鳴にも似た声を苦しげに絞り出す。


「どうして、そんな顔するんだよ」


 春の日差しに照らされた藤之助は、この上なく幸福に満ちたような、穏やかな表情(かお)でこちらを見つめていた。



***


 その青年は藤の木を眺めていた。戸袋の縁で器用に背を支えてもたれ掛かり、縁側に佇んでいる。


 立派なたたずまいにそぐわず棚のひとつもしつらえられないまま、背後にそびえ立つ大きなぶなの木に巻き付いて、ぼさぼさと野放図のほうずにあちこち枝をくねらせている白藤は、その開花を今か今かと待つように蕾を揺らしている。

 

 伸びやか白藤の枝の上には、羽を毛繕いあいながら憩う雀のつがいの姿が見える。青年は慈しむような色を浮かべてその様子を眺めていた。


 青年の横にはその妻が腰かけていた。互いの体温を分け合うように二人は寄り添っている。

 

 男は、おもむろに隣に座している妻の腹に顔を寄せた。夫の砂色の髪を、彼女はそっと撫でる。その感触が心地よいのか、彼は妻の身体にそのまま顔を埋めると、大きく息を吸った。彼女からは藤の香りがするのだ。


 妻は日差しの温かさに微睡まどろみながら、しばらく夫の温かい背をさすっていたが、突如、はっ、とその動きを止めた。


 風が吹いた。

 辺りに甘く優しい香りが漂い始める。

 行く春の穏やかな日の光に照らされた白藤の花房が、次々に綻んでいく。それはまるで、彼岸と此岸しがんを分かつ紗幕しゃまくのようにたおやかに、柔らかく靡いた。

 

 その温もりを一秒でも長く感じていたくて、白藤の化生は美しい青年の身体を強く抱き締めた。

 翠玉の瞳から一片、涙がこぼれる。


「――おやすみ、藤之助」


 柔らかな笑みを浮かべて永い眠りについた藤之助の頬を優しく撫でると、その額に不知火しらぬいはそっと口づけた。



 雀の番の片割れが、白藤の庭から飛び去っていく。

 遠く紫山しざんへと向かうその姿を、不知火はいつまでも見送っていた。

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