第十一章


 雨が降っている。


 静かに降り注ぐそれは、白藤の庭の土を黒く湿らせた。

 水滴を受けた藤の葉はしっとりと枝垂れ、眠るように閉じている。ふと、下を向いた蔓の先から雫が落ちて、太い枝に腰かけていた白藤の化生の額を塗らした。


 不知火しらぬいは大きく伸びをすると、辺りの空気を味わうようにゆっくり吸い込んだ。湿り気を帯びた土と草の匂いが、甘く身体に染み入ってくる。


 眼前に目をやると、砂色の髪を背に流した紫水晶の瞳の美丈夫が見える。いつもは縁側の戸袋の縁に背を預けてぼんやりとしているのが、今日は珍しく姿勢を正して琴を爪弾いていた。

 少女はそのつややかながらどこか物悲しい音色に耳を澄ませる。梅雨のどんよりとした気配もあいまって、それは一層切なく響いて聞こえた。――まるで藤之助自身のようだ。不知火はそう思った。


 妹の晴れ姿を見届けてから、藤之助は前よりも表情を見せるようになった。彼の努力は、妹の幸せそうな姿を目にすることで報われたのかもしれない、と不知火は思った。

 だが、そんな振る舞いとは裏腹に、藤之助はときどき言いようもなく切なげな目で遠くを見つめている。そして時折その視線が自身にも注がれることが、不知火には気がかりだった。


 雨足が強くなってきた。勢いよく地面にぶつかる水滴が飛沫しぶきを上げる。風も吹き始め、花の落ちた藤の蔓や葉が舞い上がった。しかし藤之助は、庭の惨状に構わず夢中で琴を奏で続けている。不知火は慌てて地面に降り立ち、縁側へと駆けた。


 突如、紫山をめがけて稲妻が走った。辺りに雷鳴がとどろきわたる。藤之助ふじのすけは、はっと我に返ったように動きを止め、ぼんやりとこちらに顔を向ける。

「風邪を引くぞ」

 気遣うように声をかけて後ろに回ると、不知火は男の肩に羽織を掛けてやった。

 藤之助は緩慢かんまんな動作でそれを羽織り、裾を広げて横の少女を懐に包み入れた。不知火は労るように、すっかり冷えきったその身体に自分の身体をくっつけて温めてやる。


 二人はそのまま黙って雨風が吹きすさぶ庭を前に寄り添っていた。


 ふと視線を感じて不知火が顔を上げると、こちらを覗き込む紫水晶の瞳と目が合う。


(――また、あの目だ)

 

 何か、言葉にならない不吉な気配が少女の背を撫でた。思わず男の腕を握る手に力がこもる。

「なぜ、そんな目で私を見るのだ」

 不安げな声で不知火が問うと、藤之助は虚を衝かれたのか困惑した表情を浮かべた。

「――すまない」

 一言だけ応えて藤之助は目を逸らす。二人の間を、再び沈黙が流れた。


 不知火はいよいよ不吉な予感が実体を持って迫ってくる気がした。――この男もまた、柏木のように、何も言わずに自分の前から消えてしまうのではないか。そんな不安が募ってくる。


 不知火はおもむろに手を伸ばすと、冷えた指先で藤之助の頬に触れた。藤之助はやはり切なげな色を浮かべてこちらを向く。

「どうして、そんな顔をする」

 震える声で問われ、男の瞳は迷うように揺らいだ。その理由を口にするのを躊躇ためらっているかのようだ。いよいよ耐えきれなくなって、不知火は涙をこぼす。


「――おまえも、私に何も言わずにいなくなるつもりか」


 そんなことはさせない、と少女は男の身体にしがみつく。どこにも行かせまいと力を込めて震えるその背を、藤之助はそっと撫でて、低く消え入りそうな声で呟いた。


「俺は何処にも行かない」

「ではなぜ、ずっと泣きそうな顔をしているのだ」


 そう問われると、男は唇を引き結んで目を伏せた。その姿がますます不知火の不安を煽った。――また、何も知らないままでいたくはない。少女は涙を拭い、藤之助の手を握ると、静かに語りかける。


「藤之助、私はおまえと生きていたい。最期の、その瞬間まで」


 雨を受けたように潤んだ翠玉の瞳が、目の前の男を映す。


「だからどうか、おまえの痛みを私にも分けてほしい」


 ――共に生きていくために。


 不知火の言葉に、藤之助は痛みをこらえるように顔を歪めた。そして突き動かされるように白藤の化生を強く抱き締める。


 「俺の、浅ましい願いに、お前を縛り付けたくない」


 強張った男の身体を柔らかく抱き留めると、少女はその耳元で囁く。

「おまえの願いとは、何だ」

 藤之助は身じろいだ。まだ迷いがあるらしい。その背を優しくさすって不知火は続ける。

「私は紫山が白藤の化生。おまえの願いを叶えるなど造作もない」

 冗談交じりに発せられた台詞に、藤之助がほんの少し笑うのが聞こえる。僅かに緊張がほどけたのを感じて、少女は胸を撫で下ろした。

 

 やおら顔を上げると、藤之助は訥々とつとつと語りだす。

「俺は浅ましい――あの日、藤枝の幸せを見届けて満ち足りていたはずなのに、どうにも虚しくて仕方ない」

 男はまた、何処か痛むかのように顔を歪める。

「愛する者と結ばれて、その先を夢見ることが許されている藤枝が、幸せそうな藤枝が、羨ましいと思ってしまった」

 ――それは、誰かと共に生きていける者への羨望であり、父と母、そして妹がいた過ぎ去りし日々への憧憬しょうけいであった。


 苦しげに息をつく藤之助の頬を撫でると、不知火は慈しむように目を細めた。

「浅ましくなどない」

 この上なく優しい声音で少女は言葉を紡ぐ。


「おまえだって幸せになっていいのだ――おまえの幸せは、おまえだけのものだ」


 藤之助は、はっと目を見開いた。


(――俺の、幸せ)


 ずっと願ってきた。

 藤枝が、この世でただ一人血を分けた妹が、幸せになることを。

 そのためには、どんな艱難辛苦かんなんしんくにも耐え抜いてみせた。藤枝の背を見送ったあの日、誓ったのだ。妹の幸せのために、その生涯を捧げると。


 だから考えたことがなかった。自分の幸せなど、省みることはなかった。


「俺は望んでもいいのか――己の幸せを」


 消え入りそうな声で発せられた藤之助の問いに、少女は深く頷いた。


「おまえの願いは、何だ」


 不知火は今一度、両のてのひらで男の頬を包んで優しく問いかけた。彼はまた惑うように紫水晶の瞳を揺らしていたが、心を決めたのか、静かに答える。


「俺が死んでも続いていく未来が――確かにここに生きていた証が欲しい」


 そう言って彼は目の前の少女を見つめた。その視線は、いままでになく優しく、そして切なく不知火に注がれている。

 不意にその言葉の意味を悟ると、彼女は、はっと身を強張らせた。

 藤之助は、緊張した面持ちで見つめ返す少女の手をしっかりと握った。その感触に、自分の直感を肯定されたような気がして、不知火はまた泣きそうになる。


 彼には分かっていた。永遠にも等しい時間を生き続ける白藤の化生にとって、親しかった者が残していく気配など重荷でしかないだろう。柏木を失った彼女に、また同じ責苦を強いるのはあまりにも酷だ。

 それでも彼は、願わずにいられなかった。


 男の目蓋の裏に、柏木が残した日記の一節が浮かぶ。


「不知火」


 藤之助は目の前の愛しい女の名を呼んだ。


「俺を、忘れないでほしい」


 不知火が痛みを堪えるように目をぎゅっと瞑ると、涙がこぼれた。藤之助は震えるその睫毛に指を添わせて止めどなくあふれる雫を掬いとった。

 少女は苦しげに嗚咽おえつを漏らしたが、男の手に自分の手を重ね、ただ黙って頷いた。

 ――白藤の化生は、すべて受け入れて、彼の願いを叶えると決めたのだ。


 そのまま二人は額を合わせると、どちらからともなく口づける。相手の呼吸を感じながら身を寄せると、滑るように指を絡めた。見つめ合うそれぞれの瞳には、恋慕う者の姿が映っている。


 ゆっくりと互いの体温を確かめるように口づけを深くし、名を呼び合うと、二人は静かにその身を重ねた。

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