第十章
また白藤の庭に花の季節が訪れた。この白藤は相変わらず、立派なたたずまいにそぐわず棚のひとつも
今年の花は特に香りが強く、花房が風に揺れる度にそのふくよかですっきりとした
その日、
そこには
不知火は思わず、ほう、と溜め息をついてうっとりと首を傾げた。
「すばらしいな」
「そうだな」
珍しく素直な
「これは、本来、藤枝のものだ」
不知火の心を見透かしたように、藤之助は言った。
「あの子が嫁に行くときに渡すようにと、母から預かった」
少女は頷きながら静かに彼の言葉を聞いていた。
「本当は、藤枝が奉公に出るときに持たせてやるつもりだったが、どうしても出来なかった。――俺にとっては、これがたった一つの妹との縁だから」
半月形の櫛を大切そうに両手で包むと、藤之助は息をついた。
「――だが、潮時だな」
あまりに切ないその表情に、不知火は胸が詰まるのを感じた。腕を回すと後ろから藤之助の肩をそっと抱いてやり、耳元で囁く。
「会いに行ってやるのだな」
藤之助の瞳は戸惑うように揺れた。まだ迷いがあるようだ。少女は男の後首に顔を埋めながら、なあ、とその名を呼ぶ。
「おまえは行くべきだ。たとえ交わす言葉が見つからなくとも、その姿を見届けてやるんだ」
不知火は、藤之助を抱く腕に力を込めた。その体温が勇気づけるように彼を包む。
「おまえたちはまだ、会えるのだから」
白藤の庭を風が吹き抜けた。白い花房が揺れると涼やかな音とふくよかな香りが運ばれてくる。
藤之助は大きく息を吸うと、何かを決意したようにまっすぐ空を見上げた。
***
晴れやかな春の日だった。わずかに湿気を含んだ空気がほんのりと花の香りを
この娘は今日、かねてよりの想い人と
まさか奉公人の身で、奉公先の商家に嫁ぐことになるとは思ってもみなかった。この家の人々は、自分の出自など関係なく本当によくしてくれている。しかも長年想いあった人と今日やっと結ばれるのだ。これほど幸せな娘は、きっとこの国のどこを見回してもいないだろう。そう思うと、彼女の胸はじんわりと熱くなった。
ふと、日を隠していた雲が途切れその全容が露になる。強い光に目が眩みそうになり、彼女は思わず手を
幼い頃、その手を離した兄の、優しくて、寂しくて、泣きそうな顔が、目に浮かぶ。
「藤枝」
呼ばれて娘は振り返る。砂色の髪を揺らし、紫水晶の瞳を陽光に煌めかせながら、彼女は夫となる人の傍に駆け寄った。
とはいえ、こなすべき仕事はもう片付いている。彼の心を乱しているのは他でもない新婦の兄、藤之助の存在だ。
あれから何度か説得に行ったがのらりくらりとかわされているうちに今日を迎えてしまった。彼の身の上を思うと踏ん切りがつかないのは理解できるが、折角の妹の晴れ姿を見なくて本当によいのかと、何故か織羽が口惜しい気持ちになる。
結局、藤之助は友人に新婦への贈り物を託すと、何処かに隠れてしまった。
織羽は彼が何処にいても大抵その居場所を突き止めることができたが、よりによって今日は、どこを見回しても見つからない。
預かった品を持って途方に暮れていると、集合の合図がかかった。そろそろ式が始まるようだ。織羽は
婚礼の儀は滞りなく行われた。夫婦となった二人が挨拶に屋敷の外から出てくる。一通りの挨拶が済むのを待つと、織羽は新郎新婦に声を掛けた。藤枝は織羽に気づくと、嬉しそうに駆け寄る。
「織羽先生、来てくださったんですね」
先生、と呼ばれた金縁眼鏡の青年は照れ臭そうに頬を掻いた。
藤枝とその夫は、織羽の占星術の客であった。
彼は初めて彼女に会ったとき、その姿があまりに藤之助にそっくりであったため絶句してしまった。その上、占いには身の上話が付き物である。聞くうち織羽は彼女が藤之助の妹であることへの確信を深めていった。
だが、藤之助の存在については、藤枝に話せずにいた。それというのも、二人が離れ離れになった当時、彼女はまだ幼かったがために、自分の兄が
きっと周りの者たちは、藤枝を気遣って敢えてそれを伝えずにいるのだろう。にもかかわらず織羽の口から告げるなど、ありえないことだった。
おめでとう、と祝いの言葉を述べるや否や、織羽はおもわず溜め息をついた。
複雑に結い上げた砂色の艶やかな髪を藤の花で飾り立て、紅藤色の地に大ぶりの白藤の柄をあしらった色打掛を纏った藤枝の、なんと美しいことか。紫水晶の瞳が煌めいて、まるで藤の精のようである。
だがそれ以上に、その姿が、かつて道中を練り歩いていた娼妓たる藤之助の
そこで織羽は友人から預かってきた物の存在を思い出す。
「藤枝さん、これ――」
青年は紫色の包みをそっと花嫁に差し出した。藤枝は礼を言うとそれを
「おかしなことを言って申し訳ないんだけど――ここで開けてみてくれないかな」
言いながら自分でも戸惑った表情を浮かべた織羽は、困ったようにたんぽぽ色の頭を掻いた。
織羽は織羽で藤之助に言われた通りの動きしかしていないので、さっぱり事情がわからない。というより、さんざん問い詰めたが、「とにかく渡せ」の一点張りでまともに答えてもらえなかった。
藤枝は横に立つ夫と不思議そうに顔を見合わせていたが、先生がそう言うなら、と包みを開いた。
中には、黒漆で艶やかに塗り込まれた地に、藤の枝がしなやかに伸びる姿が蒔絵で施された半月形の櫛が収まっていた。
はじめはうっとりとそれを眺めていたが、櫛の裏側を見た途端、さっ、と顔色が変わる。
櫛を掴むと、彼女は必死の形相で焦ったように通りに飛び出した。藤枝は必死に目を凝らして何かを探すように辺りを見渡すが、祝いや見物にに集まってきた者たちがひしめいて見通しが悪い。
藤枝は祈るようにぎゅっと櫛を握りしめた。その時だった。
遠く人だかりの終わりに、顔を隠すように藤色の打掛を頭上から捧げ持った人影が、供を連れてゆっくりとその場を離れようとしているのが見えた。その人影は藤枝の視線に気づいてほんの一瞬立ち止まると、打掛の襟を少しだけ上げてみせた。すると一房、砂色の髪がこぼれる。
刹那、紫水晶の瞳と目が合う。その人は
藤枝は鼓動が大きく跳ねるのを感じた。
待って、と叫ぶと彼女は駆け出した。突然走り出す花嫁に何事かとどよめく人々の間を抜けて、やっとの思いで先程の人影を見た場所まで辿り着く。
だが、そこにはもう誰もいなかった。
その場に呆然と立ち尽くすと、藤枝の両目から涙が溢れる。
櫛の裏側に描かれていたのは、藤枝の生家の家紋であった。それを目にしたとき、彼女はその送り主が誰なのか、すぐに閃いた。
眦を和ませ、優しげに、寂しげに、そして泣きそうな顔で自分をいつまでも見つめていた、在りし日のその人の姿が蘇る。
(――兄さん)
花嫁は黒塗りの櫛を握りしめ、いつまでも兄が消えた方向を見つめていた。
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