第七章 後編
少年は、吹き
繋いだ手の先には、幼い
――これは夢だ。藤之助にはわかっていた。それでも、その手に感じる妹の体温は確かに温かい。
足跡ひとつ残らない吹雪を二人は宛てもなく進んだ。どれほど歩いただろう。藤之助は、大丈夫か、と声をかけ藤枝の様子を
しかし、なぜか一言も声を発しない。先程からずっとそうだ。藤枝はなぜかにこにことこちらを見つめるばかりで、何も喋らないのだ。
突如、激しい吹雪が二人を襲った。藤之助は
そして、唐突に気づいた。
(――俺はもう、藤枝の声も思い出せないのか)
降りしきる白銀の粒が視界を覆い隠していく。そのまま何もかも真っ白になると、藤之助の意識は遠のいていった。
次に気がつくと、今度は見慣れた屋敷の中にいた。なんだか身体が妙に重い。腕を挙げると、薄紫に藤の図柄があしらわれた長い袖が目に入る。――ここは郭だ。藤之助は直感した。
その瞬間、周囲から
少年は重たく膨らんだ裾を引くと、後ろを向いて駆け出した。とにかくこの場から逃げ出さなくてはならない。
彼は果てしなく続く廊下をいつまでも走り続けた。結い上げた髪に刺した
それは首を吊った娼妓の遺骸であった。
藤之助は腰を抜かした。そのまま後ずさると、手に何かが触れる。
振り向くと何百何千もの娼妓たちの
少年は悲鳴をあげた。
這いつくばって逃げようとしても、凄まじい力で打掛を掴んで引き摺られる。引き裂かれて裾からはみ出してしまった綿が、何かの内臓のように不気味にぶちまけられた。彼は必死に逃れようと腕を伸ばしたが、腐って崩れた娼妓たちの身体が無慈悲にも覆い被さってくる。
世界が赤く塗り潰されていく。藤之助はまた、意識を失った。
それからどれほどの闇を彷徨っただろうか。
気がつくと、彼はまた郭に戻ってきていた。一瞬、はっと身体を強張らせたが、先程とは異なり、そこは静寂に包まれ、春の陽気が漂っていた。突然、何か言い様のない懐かしさが藤之助の胸を締め付ける。彼は足を踏み出すと、導かれるように屋形の中を進んだ。
ふと、一つの部屋が目に入る。よく見慣れたその外見に藤之助は胸が高鳴るのを感じた。
呼吸を整えると、意を決して戸を開く。
そこには立派なたたずまいにそぐわず棚のひとつも
藤之助は息を飲んだ。思わずそばに駆け寄る。
満開の花房が風に揺れている。彼はその一房をそっと手で包むように掬い上げると、深く息を吸い込んだ。甘く優しい香りが、藤之助の肺を満たす。
一陣の風が吹いた。白藤の花房がより一層激しく揺れる。その音が、香りが、庭じゅうに満ちていく。それは藤之助の傷だらけの身体を柔らかく包み込んだ。穏やかな温もりが全身に染み渡っていく。
ふと目をやると、花房の後ろに誰かいるのが見える。少女らしき人影は袖で顔を隠していた。だが藤之助に気がつくとゆっくりと地面に降り立ち、うっとりと首を傾げてその姿を見せた。
白銀の
少年は、はっと目を見開いた。
それは不知火であった。
彼は思わず、そのよく見慣れたその姿に手を伸ばす。彼女は応えるように、その指に触れた。途端に春の日溜まりのような笑顔を浮かべて、藤之助を見つめる。その手を握り込むと、藤之助は不知火の目をじっと見つめ返した。
その瞳に映った幼い自分の姿を目にすると、藤之助は、全てを悟った。
彼が白藤の木と初めて
今にも死にそうに弱りきった幼い少年の姿を、白藤の化生は目にしていた。その時からずっと、この少女は藤之助を見守ってきたのだ。あの満月の晩、嬉しそうに彼に話しかけたのは、長年目をかけ続けてきたかつての少年と語り合える日がようやく訪れたからだったのだ。
頬を、何か温かいものが伝うのを感じる。それが涙だと気づいたとき、藤之助はようやく長い夢から醒めた。
どれだけ眠っていたのだろう。外は既に日が落ち、夜の
だが、不思議と身体が温かい。ふと足元に熱を感じて目をやると、どこから入ったのか、そこには白い少女がぴたりとくっついて眠り込んでいた。何やら泣き腫らしたのか、目元が赤く色付いている。起こしてしまわないように静かに抱き寄せると、藤の香りがした。
その温もりに、藤之助はこの上なく安堵した。
彼は目を細めると、腕の中で眠る不知火の頭をそっと撫で、赤く腫れ上がった目元に唇を寄せる。
――ずっと探していたものを、ようやく見つけた。藤之助は、胸の奥で何かが静かに溶けるのを感じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます