第八章 前編

 

 どこかでつぐみが鳴いている。織羽おりばはその声に目を覚ました。


 鼻先が凍りついている。このまま起きるかもう少し眠るか迷ったが、心を決めると、いつもかけている金縁眼鏡を手探りで探し当て、顔にあてがった。


 そのままむくりと布団の上で上半身を起こす。菊花色の頭髪がほぐした毛糸玉のようにもじゃもじゃと絡まっている。それをがしがしと掻いて整えると、寒さに震える身体を往なしながら寝床から出た。

 床板に着いた足からぞくぞくと全身が凍えていく。


 爪先立ちで寝所を後にすると、急いで居間に入る。たちまち暖かい空気に包まれ、織羽はほっと息をついた。暖炉には煌々と火が揺らめいている。早起きの女中が準備しておいてくれたようだ。


 ここは織羽とその師匠が共に暮らす屋敷である。―もっとも主である師匠は長いこと不在にしているが―仕事場も兼ねているのでそこそこ立派な造りで、住み込みの女中も抱えている。若い織羽にはいささか身に余る豪華さであった。


 とはいえ、この国で占術を生業とする者にはある程度の格式が必要だ。金縁眼鏡の青年は今日も遠くの地で職務にいそしんでいるであろう師匠に、心の中で手を合わせた。


 誰もいないのを確認して部屋の隅で着替えると、勝手口から外に出た。そのまま大きく伸びをする。よく冷えた空気が気道を爽やかに通り抜けていく。


 ふと、向かいの家の藤棚が目に入った。一見すると葉も何もなく寂しい様子だが、よくよく目を凝らすと冬芽が小さく膨らんでいるのがわかる。織羽は、それが嬉しいような、寂しいような、複雑な心持ちでいた。


 もう春も近い。しかしあの雪の日以来、藤之助ふじのすけの元を訪れられずにいた。

 

 彼との付き合いはもう大分長いが、あれ程までに明確な拒絶を向けられたのは初めてで、さすがの織羽も戸惑っている。しかも藤之助のよき理解者であるつもりであった彼にとって、自分の存在が、直接ではないにしろ彼を苦しめていたという事実は、なかなかにこたえた。

 

 本当は、友人があれだけ心を痛めていたのだから、こんな時こそ傍に居るべきなのだろうが、織羽は自分にその資格があるのか、正直わからなくなってしまった。

 藤之助が自分と過ごしているときも苦悩し、それに耐えていたのかと思うと、織羽の胸は鉛を飲んだように重く沈むのだった。


 菊花頭の青年は、ぱんっと両の頬を叩く。――落ち込んでばかりいられない。今日も仕事が待っている。


 きびすを返して部屋に戻ろうとしたとき、もし、と織羽を呼び止める声がした。


 それは少し低く、掲琴バイオリンの音のように心地よい響きだった。よく聞きなれたその慕わしい声に、彼は、はっと振り返る。


 そこには羽織を頭上から掲げ少し顔を隠した、砂色の髪の美丈夫が立っていた。


「――藤之助」


 目をみはって固まる織羽を見ると、藤之助はぎこちなく微笑んだ。

「顔を見に来た」

 それを聞くと、織羽はぼろぼろと涙をこぼした。友人は苦笑する。

「お前は本当にすぐ泣くな」

「――もう会えないかと思った」

 織羽は眼鏡をずり上げるように両手で涙を拭うと、嗚咽混じりにそう言った。



 藤之助を客間に通すと、二人は改めて向かい合った。とはいえしばらく喧嘩別れのような状態でいたため、お互い何をどう切り出したものかわからず、しばし沈黙が流れた。ややあって耐えきれなくなった藤之助は、ぷっと吹き出す。

 なんだよ、と、つられて織羽も半笑いになってしまった。友人はなおもくつくつと笑っている。

「いつも頑固で、騒がしくて、図々しいお前が、しおらしい顔をして黙っているのはなんだか可笑しい」

「そりゃ悪かったね」

 不満げに返すも、織羽の語気は安堵を含んでいた。ただ言葉を交わすだけのことが、今は奇跡のようにさえ思える。

 

 と、藤之助の紫水晶の瞳がこちらを窺うように覗き込んでいる。織羽がその目を見つめ返すと、彼は真剣な表情で意を決したように口を開いた。


「――先だっては、すまなかった」


 うん、と応えると、織羽は困ったように静まり返ってしまった。何か返事をしたいが、言葉がうまくまとまらない。

 その様子をしばらく見ていたが、藤之助は軽く目を伏せて呼吸を整えると訥々とつとつと話しだした。


「あのとき言ったことは、本心だ」


 織羽は再び、うん、と頷いた。あれは紛うことなき藤之助の本心であったと、彼にもわかっている。そして自分はそれに気づけず、無神経に友人を傷つけ続けてきたことも――。


「――だが、あれは八つ当たりだ。俺の憂心ゆうしんにお前を巻き込んでしまった―」

 そう言うと、藤之助は頭を下げる。


「悪かった」

「藤之助、顔を上げてよ。――おれの方こそ、何にもわかってないくせに、ずっとごめん」


 やはり困ったように笑うと、織羽は手元の湯呑みに視線を落として閉口した。何を言っても言い訳になってしまう気がしたのだ。

 藤之助は、そんなことはない、首を横に振る。彼もまた、困ったように手揉みすると黙ってしまった。静寂が二人の間を流れる。


「――お前が寄越した藤饅頭は旨かった」


 突如、沈黙を破ったのが菓子の話だったので、織羽は思わず、え、と聞き返してしまった。

「藤饅頭に限らず、お前が持ち込むものは、まあ、悪くない」

 若干視線を泳がせながら、藤之助は言う。菊花頭の青年は、かけている金縁眼鏡がずり落ちるような錯覚を覚えた。

「君、喜んでたんだ」

「喜んでいただろう、失敬な」

 紫水晶の目をわずかにいからせると、藤之助は憤慨した。その姿に拍子抜けした織羽は、椅子にへたり込み背を震わせて笑いだした。なんだかどうしようもなく可笑しさが込み上げてくる。友人はすかさず渋面を作ると、その様子をじとっとした目つきで見てくる。


 織羽は笑いながら、その目の端に涙が滲んでくるのを感じた。


(――そうか、これでよかったんだ)


 心のどこかで、ずっと思っていた。自分の存在は藤之助にとって本当は不要なのではないか、むしろ邪魔なのではないかと。けれど、素っ気ないながらも藤之助が自分を避けることはせず傍に置いているうちはそれでいいと、考えないようにしていた。

 しかし漠然とした不安が払拭されることはなく、ずっと心の奥底におりのように沈んでいたのだ。


 けれど今、長年の思いが報われたような気がした。――自分は彼の傍にいてよいのだ。


「よかった。いつもの藤之助だ」


 目尻の水気をそっと拭うと、織羽はにっこりと笑った。藤之助はどこか釈然としない様子でいたが、諦めたように微笑む。


 窓から冬晴れの日差しが優しく降り注ぐ。暖かい空気が満ちた部屋で、二人は穏やかに語り合った。




「ところでさ、君がああなった理由を聞いてもいい?」

 唐突に核心をついた織羽の質問に藤之助は目を泳がせた。どう説明したものか、上手く言葉が出てこない。

「――出、出たのだ」

はっきりしない藤之助の物言いに織羽は怪訝けげんな顔をする。

「出たって何が」


「――藤の精」


 菊花頭の青年は驚いたように目の前の友人を見つめる。

「藤之助、冗談なんて言えたんだ」

「冗談ならよかったな――」

 藤之助は遠い目をしてそう呟いた。織羽はいよいよ不審そうに首を傾げる。

「――霊感あったっけ」

「幽霊ではない」

 口にした途端、藤之助の脳裏に足を踏み鳴らして抗議する真っ白な少女の姿が浮かんだ。いつの間にか口癖がうつっているのに気がつくと彼は額を押さえた。

「――いや、もうこの際、幽霊でいい」

 半ば強引に納得させられた織羽は、いいのか、と悩みつつも先を促す。


「その幽霊が、どうしたの?」


 湯呑みを包む織羽の手が、心配そうにぎゅっと握りこまれた。藤之助は腕を組むと、事の顛末てんまつをどう話したものか、考え込む。


 馬鹿正直に話したところで信じてもらえるとは思えない。しかもあれだけの癇癪かんしゃくを起こした原因がこれとあれば、いよいよ頭がおかしくなったと心労をかけかねない。かといって不知火の存在を語らずして、今回の事態について仔細しさいに説明することもできない。


 何をどう話したものか皆目かいもく見当もつかなくなってしまった藤之助は、もはや考えるのをやめた。


「お前は死ぬと言われた」

 

 友人の突然の告白に、織羽の金縁眼鏡がとうとうずり落ちる。鳶色の目がまんまるに見開かれると見る間に潤んでいく。藤之助は狼狽うろたえて、早口で続けた。

「死ぬといっても具体的にいつかはわからない。数年後かもしれないし、数十年先かもしれない。そもそも人はいつか死ぬのだ、ごく当たり前のことを言われたに過ぎない」

 それならよかった、と織羽は胸を撫で下ろしかけたが、すぐに我に返る。

「いやよくないよ、いきなり幽霊が出てきて『お前は死ぬ』って、どういうこと?」

 いぶかしむ織羽の様子に、やはりそうなるか、と藤之助は目元を指で摘まんだ。まったく嘘はついていないのだが、自分で言っていても確かに嘘臭さしかない。目を瞑って考え込んでいる男に友人は声をかける。


「――話したくないなら、話さなくてもいいよ」


 そう口にする織羽の顔は少し寂しそうだった。とび色の瞳が不安げに揺れている。


 藤之助ははっとした。――また同じ過ちを繰り返すところだった。

 こうやって煙に巻くような態度は、相手を動揺させまいと気遣うようで、結局のところ拒絶しているのと何ら変わりない。


 男は向かい合う友人の顔をじっと見ると、途端に真剣な表情になった。



「織羽、俺は本当に、もう長くない」



 きゅっ、と織羽の喉が鳴った。

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