第七章 前編


 ぱちっ、と炭がぜる音に、藤之助ふじのすけの意識は引き戻された。書き物をしていたはずが、紙には濃い墨溜まりが出来ている。駄目になってしまったそれを丸めると、無造作に火鉢に放り込んだ。乾いた植物が焦げる匂いが漂う。藤之助は緩慢かんまんな動きで文机に戻ると、頬杖をついて雪の降りしきる冬の庭を眺めていた。

 

 ここは、いままで過ごしていた部屋ではない。


 あの日から藤之助が白藤の庭を訪れることはなかった。この部屋は別の庭に面しており、障子戸ではなく、硝子ガラスまった格子戸が設えられている。冬のしんと冷えた空気が、硝子を伝って藤之助の元まで忍び寄ってくる。

 

 庭には大きな桜の木が植わっていた。その葉はすっかり落ち、裸になった枝には雪がのし掛かっている。師走の空は灰白色に煙り、水墨画のような黒白だけの世界が広がっていた。


 あれ以来、藤之助は前より一層、人との接触を避けるようになった。元より身に巣食っていた怠惰が、さらに身体を蝕んでいく。――もう何を思い、何を考える気力もない。藤之助は無感動に、ただ過ぎ行く日々を揺蕩たゆたっていた。


 ふと、外で誰かの足音がするのが聞こえる。――お待ちください、と制止する声を振り切って足音の主は戸を乱暴に開く。

 そこには厳しい表情の織羽おりばがいた。


「何があったの」

「――帰れ」


 ただ一言そう口にするのと、藤之助は顔を背けた。


「ここ最近、誰にも会わないどころか食事も碌に摂ってないんだろう。一体何が――」

「帰れと言っている」


 藤之助は声を荒らげてその言葉を遮る。織羽は一瞬硬直したが、構わず部屋に入ると友人の肩を掴んだ。

「藤之助、ちゃんと話してくれ」

 とび色の瞳が、真っ直ぐに藤之助を見つめている。その視線から逃れるように彼は目を逸らした。

「話すことなどない」

 そう低く発すると、藤之助は肩に食い込んだ友人の手を引き剥がす。それでもなお、聞くまで帰らない、と織羽は食い下がった。

「お前には関わりないことだ」

 藤之助はなおも俯いたまま、自分を案じる目の前の男と決して目を合わせようとはしない。膝を握り込む手がわずかに震えていた。織羽は、すっかりやつれてしまったその手にそっと自分の手を重ねると、かすれた声で呟いた。


「――心配なんだ。君が、どこかに行ってしまいそうな気がして」

「またそれか」


 その瞬間、藤之助は織羽の手を振り払った。何が起こったのか理解できず、織羽は目を見開く。顔を上げた藤之助は、激しい怒りをたぎらせて眼前の男を睨んでいた。


「お前にはわからない。外の世界で自由に生きられるお前に、この場所で、己の生き死にさえままならない俺のことなど――」


 彼はそう叫ぶと、織羽の胸ぐらを掴んだ。


「どこにも行けない、俺のことなど――」


 藤之助は娼妓しょうぎだ。このくるわの所有物たる彼に己の意志で他の生き方を選ぶことはできない。

 ――死に場所すら、自ら選ぶことは許されない。


 織羽は黙って、友人の慟哭どうこくを聞いていた。

 だが、燃えるような怒りとは裏腹にその瞳の奥は暗く凍りついているのを、彼は見た。



***



 不知火しらぬいは、草木の枯れ果てた寂しい白藤の庭の縁側に、一人ぽつんと腰かけていた。

 この部屋の主とは、もう長いこと会えずにいる。


 藤之助に死期を告げた不知火は、硬直する彼を見て首を傾げた。

 柏木にその話をしたときも、全く同じ反応を示したのだ。


(――なぜ、「死ぬ」と告げると、人は黙り込むのであろう)


 不知火は不思議だった。生きとし生けるものは皆等しく、いつかは死ぬ定めである。それは当たり前のことで、何か心を動かされるようなことではない。――ずっとそう思ってきた。


 あの日から、藤之助はこの部屋を使わなくなった。突然のことに不知火は戸惑ったが、どうすることも出来ず、開け放たれた部屋の中でじっとこの場所の主の帰りを待った。


 しかし数日が過ぎても、藤之助は一向に姿を見せない。


 不知火は、藤之助がいつもそうしているように、戸袋の縁で背を支えてもたれ掛かってみた。しかし、戸の縁が背中に食い込んで座っていられない。案外難しい。

 少女はその場で膝を抱えてうずくまった。――ここはなんだか藤之助が残した気配を感じて、胸が妙にざわついてならない。

 

 すっくと立ち上がると、不知火は気を紛らわすために部屋の中を探ることにした。何か藤之助の気を引くものがあるかもしれないと思ったのだ。

 花器から文箱ふばこまで、あらゆる場所を物色してみた。なんだか妙に色っぽい内容の文から、用途がわからないものまで色々と発見したが、結局、それらしいものは特に見つからなかった。

 

 もはや何一つやることがなくなってしまった不知火は、部屋の真ん中に寝そべって天井を見上げる。

 ――藤之助はなぜ、突然姿を消してしまったのか、もうここには戻って来ないのか――そんな答えのない問いを、頭の中で延々と繰り返していた。


 いつだったか、死んだらどうなるのか、彼と話したことを不知火は思い出した。


 藤之助は、「死は終わりだ、何も残らない」と言っていた。その意味が、不知火には未だ理解できずにいる。

 ――死んだら確かに人としての姿かたちは失くすが、魂は残る。それが紫山しざんに登って眠るだけだ。化生けしょうたる不知火にとって「死」は、現世での生を終えて万物の母たる山の元に帰ること以外を意味していなかった。

 

 不知火は、白藤の木の魂が紫山の気を受け、形を得て顕現けんげんした存在だ。その本質は魂そのものと言っても過言ではない。だからこそ、死期が近づき、その魂が紫山に還ろうとしている人間は、その存在を化生と近しくするため、彼らの姿を見ることになるのだ。

 ――それがどうして「終わり」で、なぜ「何も残らない」ことになるのだろうか。白藤の化生は、鼻に皺を寄せて考え込んでいた。


 ふと、天井の一画にうっすらと不自然な継ぎ目があるのが目に入る。不知火は気紛れに、寝そべったまま指を横に振ると、それはすっと開いた。

 不知火は驚いて飛び起きると、浮かび上がって急いで中を覗き込む。

 天井裏はほこりかびの匂いに満ちており、少女は思わず裾で鼻を覆った。少し迷ったが、心を決めて真っ暗な空間にそっと手を差し入れると、何かが指に触れる。不知火は恐る恐るそれを引っ張り出した。

 それはほこりが厚く積もった一冊の書であった。慎重に汚れを払い、表紙を確認した不知火は、あっ、と小さく声を上げる。

 

 それは柏木かしわぎが残した日記であった。

 

 不知火は鼓動が跳ねるのを感じた。


 柏木も、藤之助と同じく、その死期を告げた直後に不知火の前から姿を消してしまった。その日もいつもと同じように言葉を交わしていた。柏木は自分以外に不知火が見えていないことに別段、疑念を抱いていないようだったが、ふとそんな話になり、彼女に死が近づいていることを伝えた途端、黙って部屋を出ていってしまったのだ。

 

 それ以来、柏木にはずっと会えずにいる。


 冷えて固まる指先を叱咤しながら、少女はそっとページを捲った。

 

 そこには郭での日々が、情感豊かに綴られていた。――柏木は日の光にほころぶ牡丹のような、あでやかながらも温かく心地よい雰囲気をまとった女だった。彼女がつづる言葉と文字に触れていると、不知火の心には在りし日の友の姿が鮮やかに浮かぶ。

 

 少女はそれを夢中で読み進めていたが、終盤のとある頁に差し掛かると、ぴたりと動きを止めた。

 

 書かれていたのは、不知火が柏木に死期を告げた日のことであった。


 ――不知火から聞いた。私はもうすぐ死ぬらしい。自分が死ぬなんて、考えたこともない。ここに来てからいろいろなことがあったけれど、まさかこんなに早くに自分の命が終わってしまうなんて思ってもみなかった。これを書いている今も、実感はない。

 あの子は、死んだら魂になって紫山に還ると言っていた。でも、死ぬのがどういことなのか、本当のところはわかっていないみたいだった。私にだってよくわからない。でも、きっとあの子には、もっとわからないのだろう。もともと人ではないのだから。

 死ぬってどんな気持ちだろう。この世のものだったものが、この世のものでなくなるのは、どんな気分だろう。私にはわからない。わからなくてもいいのかもしれない。この世はわからないことばかりだから。

 だけどひとつだけ確かにわかっているのは、私は、死ぬのが怖いということだ――


 不知火は柏木の筆跡を、そっと指でなぞる。


 日記に連ねられた文字は震えていた。頁の所々に、何か染みのようなものがある。――涙だ、と不知火は直感した。彼女はその部分に触れると、きゅっと目を閉じた。何か苦いものが腹の底から込み上げてくるのを感じる。――自分は何か、とんでもない過ちを犯してしまったのではないか。震える指で頁を捲ると、その先もしばらく文が綴られているのが見える。不知火は鈍く痛む胸を押さえながら、続きに目を通した。


 ――いよいよ身体に力が入らなくなってきた。私はもうすぐ死ぬ。この日記もこれで最後になるだろう。不知火の言うとおりになった。やっぱりあの子は本当に神様だった――


 少女は全身が冷えて固まっていくのを感じた。


(――柏木は、もうこの世にいないのか)


 不知火は、柏木が死んだことを知らなかった。


 この白藤の化生には、自分が見える者の死期が近づいていることはわかっても、実際にいつ最期さいごを迎えるのかまではわからなかった。したがって自分がその死を見届けた者以外については、その生死を知る術がない。

 だが不知火は化生だ。魂だけの存在になった者にも気づけるはずだった。だから、柏木がもうこの世のものではないなら、それを感じることが出来るはずだ。この世のものでなくとも、また触れ合えるはずだったのだ。


 しかし、柏木はってしまった。不知火に何も知らせないまま。


 凍えた指先を必死に操って、不知火はその先に目をやった。


 ――今は不思議と穏やかな気分だ。どうしてかはわからない。ここのところ、わからないことばかりだ。

結局、最後まで不知火には会えなかった。だってどんな顔をして会えばいいのかわからない。会ったらきっと私は泣いてしまう。情けない姿は見せたくない。最後は笑って迎えたいのだ。

 だけど、私のたった一人の友人は、私が死んでも私のことを覚えていてくれるだろうか。あの子は長生きだから、私との時間なんて一瞬のことかもしれない。でも私にとっては、永遠に続いてほしい時間だった。ときどきでいいから、私を思い出してほしい。


 不知火、どうか私を忘れないで――


 その一節を読み終えると、不知火は最後の頁を開く。すると、白藤の花弁が数枚こぼれ落ちた。

 

 もう何の香りもしないそれをそっと手に取ると、少女の目から、涙があふれた。


 胸が張り裂けそうに痛む。彼女はもうこの世にいない、かけがえのない友の日記を強く抱き締めた。

 柏木のことを忘れたことは、一度だってない。あの日から、ずっと会いたかった。けれど、それはもう叶わない。


 ――柏木は死んでしまった。もう二度と、会うことはできない。


 不知火は泣きじゃくった。胸が痛くて仕方ない。どうしてこんなに苦しいのだろう。息ができない――。きつく目を瞑ると、そのまま床に倒れ込む。

 視界が閉ざされると、深い闇が少女を飲み込む。どこまで沈んでいくような錯覚を、不知火は覚えた。――もうこのままいっそ、何も感じなくなればいい。そんな気さえした。


 その時、白藤の庭を、風が吹き抜けた。それは不知火の指からこぼれた白藤の花弁を巻き上げると、庭先に散らした。少女は慌ててそれを追いかけて、汚してしまわないように一枚一枚丁寧に拾い上げた。やっとの思いで全て集め終えると、部屋を振り返る。


 不知火はその場に立ち尽くした。


 気づいてしまったのだ。姿勢を崩し、戸袋の縁で器用に背を支えてもたれ掛かり、慈しむような優しい視線を白藤の木に向ける男の姿を、自分が無意識に探していることに。


 再び少女の頬を涙が伝う。――この胸の痛みが何なのか、わからない。どうしてこんなに苦しいのか、わからない。不知火には何もわからなかった。何もわからないけれど――


ただ、藤之助に会いたい、そう思った。

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