第六章


 藤之助ふじのすけは珍しく朝から身支度を整えて部屋の真ん中に座していた。

 

 普段は無造作に背に流したままの砂色の髪は丁寧にかれ、その上半分が、藤の房を模した飾りがあしらわれたかんざしで結い上げられている。藤紫の長着に銀鼠ぎんねず色の帯を併せ、くり色の羽織を着込んだ美丈夫は、背筋を正してこれから訪ねてくる客人を待っていた。

 

 冬の乾いた空気が藤之助の喉から水気を奪っていく。彼は目を瞑ってじっとそれに耐えた。

 

 そのとき、戸を叩く音がした。一声応じると、静かに戸が開く。影から蝋梅ろうばい色の癖毛の青年が現れると、神妙な面持ちで入ってきた。その腕には風呂敷に包まれた何か大きな筒状のものが収まっている。

 織羽おりばは部屋の主の向かいに静かに座ると、風呂敷を解いて中のものをどん、と床に置く。

 それは巨大な酒瓶だった。藤之助はぎょっとした。


「――お招きありがとう、藤之助」

「いや、俺が招いたわけではないが」

 

 彼は腕を組むと、じとっとした目つきで織羽を一瞥いちべつした。

 


 話は七日前にさかのぼる。

 

 先日の逢瀬おうせ疑惑の騒動以来、しばらく織羽は本業が多忙となりくるわに姿を見せていなかった。藤之助はこれ幸いとゆったりとした時間を過ごしていたが―もちろん不知火しらぬいには邪魔されていた―久々に静かな日々を味わっていたある日、それは突然届いた。


 織羽からの分厚い文である。


 禍々まがまがしい気を放つそれに、藤之助は恐怖した。そのまま捨ててやろうかと思ったがそういうわけにもいかず、恐る恐る中をあらためる。

 そこには先日の件――藤之助の恋人がいるという噂について、改めて詳細を聞かせるようにという内容が、妙にどろどろとした文体で綴られていた。

 藤之助は頭を抱えた。織羽は気紛れだが意外と頑固なところがあり、こうなると決して引き下がらない。

 男は死んだ魚のような目で庭の白藤の木を見る。


(――どう説明したものか)


 藤之助が誰かと逢瀬を重ねているという事実はない。だが確かに織羽という友人とは別に、この白藤の庭で語らう者がある。しかしそれは人間ではなく、悠久の時を生きる藤の精だ。


 事実をありのままに伝えてしまえるならそれが一番良いのだが、実在しない恋人の存在を信じ込んでいる人間に「藤の精が現れた」などと言っても、はぐらすための方便だと思われるのが関の山だ。そもそもこんな嘘臭い話を誰が信じようか。


 かといってこれは真実であると証明しようにも、当の不知火が現れないことにはどうにもならない。しかし何故だか不知火は、織羽が訪れているときは絶対に姿を見せようとはしなかった。まるで彼に姿を見られるのを拒んでいるかのようだ。



 藤之助は悩ましく、砂色の髪をぐしゃぐしゃと掻き上げた。もう一度文に目を落とす。

 改めて内容を確認すると彼は目を剥いた。よく見ると次訪問してくる日時が指定されているではないか。今日からちょうど七日後の日付になっている。あと一週間で、織羽を納得させる言い訳を考えなければならないというのか――。

 

 藤之助は何もかも面倒になって床に大の字になった。ぎゅっと瞑った目元を、細長い指で押さえる。


 (――詰みだ)



 そして今日を迎えた。藤之助はあの後朝晩頭を悩ませたが、結局何も思いつかなかった。文の中身に圧倒され、思わず身なりを整えて織羽を迎えてしまったが、まさか酒を携えて現れるとは思わなかった。こんな改まった格好で酒をみ交わすなど、まるで噂が事実であると認めるようなものではないか――。


 藤之助はかぶりを振った。事実ではないことを事実だと認めることはできない――そういう事実は、断じて無い。


 百面相する友人の様子に気づかず、織羽はぎこちなく酒を器に注いだ。うっかり溢れそうになるのをすんでのところで止めると、たぷたぷと中身が波打つさかずきを藤之助に差し出した。彼は怯えながらそれを受け取る。

 織羽は自分の分も手酌てじゃくで注ぐと、酒盃しゅはいを高く掲げた。


「乾杯――」

「いや待て」


 藤之助は声をあげてそれを制した。

「何だこれは」

「え、祝盃しゅくはいでしょ」

 蝋梅色の頭を傾けて、織羽は怪訝けげんな顔で藤之助を見る。男はこれまでになく渋い顔をした。


「何を祝うようなことがある」

「だって、そんなきちんとした格好してるってことは、そういうことでしょ?」


 織羽は緊張した面持ちで、珍しく着飾った友人を指差した。


(――普段はだらしなくて悪かったな)

 藤之助は内心むっとしたが、事実、いつも気の抜けた格好で織羽に対面しているので、何も言い返せなかった。


「はっきり言うが、恋人などいない」

 居ずまいを正して切り出すも、織羽は疑いの眼差しを向けてくる。

「君は独り言なんかいう質じゃない」

 うっ、と藤之助は言葉を詰まらせた。本当に独り言ではないのだが、やはり弁解は難しい。

 困ったように固まる友人を目の当たりにすると、織羽は握っていた盃をぐっ、とあおった。たった一杯飲んだだけなのに、もう目が据わっている。――織羽は麦酒以外は下戸げこだった。


「藤之助、おれは嘘が嫌いだよ」

「嘘などついていない」


 じゃあどういうことなんだ、と織羽は詰め寄る。

 藤之助は居たたまれなくなり、織羽がそうしたように同じく酒をあおると、興奮している目の前の男の赤く染まった鼻をぐいとつまんだ。


「落ち着け」


 織羽はその指から逃れると、痛む鼻をさすった。藤之助の口から思わず溜め息が漏れる。――そもそも恋人が居ようが居まいが、どうだってよいではないか。何をそんなに必死に聞き出そうというのか。

「とにかく、そういう者はいない」

 藤之助はなぜか涙ぐんでいる友人のとび色の目を見つめると、きっぱり言いきった。すると織羽は突如、くしゃと顔を歪める。藤之助はぎょっとした。


「君はそうやって、おれを蔑ろにするんだ」


 なにかにあてられたように、織羽は突然わんわん泣き出した。藤之助はもはや驚きを通り越して呆れ返った。たった一杯でここまで酔えるのはもはや特技だな、と頭の片隅で思った。

 

 金縁眼鏡の青年は酒瓶を抱え込むと、藤之助が止めるのも聞かずにそのまま二杯、三杯と酒を流し込む。いよいよ酔いが回ると、彼はその場にうずくまってそのまま眠り込んでしまった。藤之助は人を呼ぶと客間に友人を運ばせたが、彼はまだ涙を流しながら、夢うつつでうわ言を口にしている。


 「――藤之助は、いつかおれを置いてどこかに行っちゃうんだ」


 織羽の寝言ともつかない言葉に、何を言っているんだと苦笑すると、藤之助はそっと部屋の戸を閉じた。



 

 すっかり静かになってしまった白藤の間で、男は長い溜め息をつく。

 くすくすと笑う声がして外を見ると、縁側に腰かけた不知火がこちらを見ていた。


「まったく愉快なやつだ」


 藤之助は痛む頭を押さえた。――まったく笑えない。


「騒がしくてかなわない」

「でも、おまえは存外、あれが気に入っているのだろう」


 不知火は、鈴を転がすような声で悪戯っぽく笑う。

 内心を言い当てられたような気がして罰が悪くなった藤之助は、織羽が残していった酒を口に含んだ。爽やかな甘味と酸味が程よく喉を焼く。

 

 師走の庭は、木々がすっかり葉を落とし、寂しい景色になっていた。呼吸する度に酒気混じりの吐息が白く宙を漂う。白藤の木には手鞠のように膨らんだ雀が二羽、寄り添うように陽光を浴びながら憩っていた。つがいだろうか。藤之助はそれを複雑な心持ちで眺めていた。


 先程、織羽が発した言葉が妙に引っ掛かっている。「藤之助がどこかに行ってしまう」とは、どういう意味だろう。

 もし仮に誰かと結ばれることがあったとして、それが織羽との別れをもたらすとは限らない。それとも所帯を持ったらもう自分の相手はしてくれないとでも思っているのだろうか。元よりまともに相手などしていないのだから、今と大して変わらない。何も案ずることはないのだが――。


(――そもそも、ここを出られるはずもない)


 そう思うと、藤之助は胸の内に何かおりのようなものが沈んでいくのを感じた。


 白藤に留まっていた雀の片方が飛び立っていった。取り残された一羽は、戸惑うように右往左往している。

 ――取り残されるのはむしろ自分の方なのではないか。そんな思いが藤之助の中にはあった。

 

 その雑念を打ち消すように、藤之助は盃の中身を飲み干した。




 藤之助はふと、横で足をぱたぱたと振る少女を見る。そもそも織羽のあらぬ誤解の原因の一端は、他でもない、この白藤の化生けしょうにもあるのだ。


「――いつも思っていたが、お前は織羽がいるときには現れないな」

「それはそうだ、あれには私が見えないからな」


(――何だと)


 突然のことに、藤之助は絶句した。不知火の言っていることが一瞬理解できなかった。

 不知火は指先で髪をもてあそびながら、淡々と続ける。


「柏木に言われたのだ。誰か他の人間といるときに出てきてはいけないと――会話がちぐはぐになってしまうからな」


 腹の底から何か苦いものが迫り上がってくるのを感じる。藤之助は白い化生を正面から見据えると、重々しい声で問いただす。


「なぜ織羽には、お前の姿が見えない」

「それはあれがまだ、その時を迎えていないからだ」


 不知火はやはり淡々と答えた。


「その時?」


 藤之助は眉根を寄せる。不知火は目の前の男の顔をじっと見つめた。


「私は白藤の化生。本来人の目に映るものではない。私が見えるとしたら、それは化生に近づいている者だけだ。」


 向かい合う翠玉の瞳が藤之助を捕らえる。藤之助は指先がしんと冷えるのを感じた。その先を聞くことを思うとわずかに鼓動が跳ねた。だが、確かめないわけにはいかない。


「化生に近づく、とはどういうことだ」


 不知火の視線が、真っ直ぐに藤之助を射た。


「おまえはもうじき、人としての生を終える」


 青年は息を飲んだ。



「――俺は、死ぬのか?」



 真っ白な白藤の化生は、そうだ、と頷く。


 藤之助は、全身が冷えきっていくのを感じた。

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