第五章


藤之助ふじのすけさ、最近何かあった?」

 

 読んでいた書物のページめくる手を止めると、青年は声の主を見上げた。金縁眼鏡に囲まれたとび色の丸い瞳と目が合う。

 藤之助は何のことかわからず、軽く首を傾けて先を促した。織羽おりばは少し迷うように目を泳がせていたが、銀杏いちょう色の癖毛をがしがしと掻くと、意を決して切り出した。

「その、くるわの子たちから聞いたんだ。君に、最近その――」

 織羽はなおも言い淀む。――どうにも様子がおかしい。藤之助は怪訝けげんな顔をした。


「はっきり言え」

「――君に、恋人が出来たって」

 

 金縁眼鏡の青年は赤らめた顔を両手で覆った。

 藤之助は、ぎゅっと眉間に深く皺を寄せた。全く身に覚えのない話だ。

「何の話だ?」

「君が誰かと話しているのを聞いたって――おれのいないときに」

 ますます訳がわからず、藤之助は首をひねった。織羽が何を言っているのか、皆目見当もつかない。

 

 ここは郭だ。客でもない者が、まったく誰の目にも触れずに娼妓しょうぎに会うことなどまずありえない。ましてや藤之助は長いこと客を取っていない。加えて郭の人間ともほとんど顔を合わせていないのだ。これほどまでに他人と触れ合っていない人間が、誰と逢瀬おうせなどしようというのか。

 

 と、そこまで考えて、男の脳裏に閃くものがあった。

 春の麗らかな日差しのような笑みを浮かべて、うっとりと首を傾げる駒鳥のような少女の姿が目に浮かぶ。


(いや、まさか)

 彼はかぶりを振ってその想像を打ち消した。

 郭の者たちが言うのは、確かに不知火しらぬいのことで間違いないだろう。だが、あれは断じて逢瀬などではない――。

 眉根をきつく寄せて腕組み黙り込む友人を見ると、織羽はいよいよ動揺しはじめた。

「え、本当なの?」

 嘘ではないが、真実でもない。藤之助はどう答えたものか頭を悩ませた。

 

 不知火がこの場に現れて説明してくれれば瞬時に解決するのだが、どういうわけか織羽が訪ねてきている間は姿を見せないのだ。これまでの経緯をそのまま話してもよいが、まずもって「藤の精が現れた」などと馬鹿正直に言えば、とうとう頭がおかしくなったのと思われかねない。かといって適当な方便を思いつくほど、この青年は器用ではなかった。

 

 どうしたものかと思案していると、戸の向こうから織羽を呼ぶ声がする。どうやら鑑定の約束していた娼妓らしい。彼は急いで立ち上がると、今度詳しく聞かせてもらうから! と言い残し、慌ただしく去っていった。

 

 ――助かった。藤之助はどっと疲れが吹き出すのを感じると、床に倒れ込んだ。


 そのまま横を向くと、白藤の庭が目に入る。


 肌寒い空気が辺りを満たしている。白藤の木は立派な豆果を実らせ、それは時折、秋風に物悲しく揺れる。白藤の木や、それを支えているぶな、辺りの木々は、赤に黄に鮮やかに色づいていた。

 

 藤之助はなんとなく、庭の方に手を伸ばしてみた。突如、縁側の下から白い頭がにゅっと現れる。男は跳ね起きた。白い頭の主はその様子にけらけらと笑う。彼は渋面した。

「お前は毎度、何の前触れもなく現れるのはやめろ」

「おまえこそ、毎度飽きずによく驚くものだ」

 ふふふ、と楽しそうにこちらを指差す不知火に藤之助はすっかり毒気を抜かれる。少女はそのまま縁側に腰かけると、足をぱたぱたと振って、鼻唄を口ずさんだ。今日はやけに機嫌が良いようだ。

 藤之助の視線に気づくと、彼女はうっとりと首を傾げる。


「――私との逢瀬、楽しいか」

「――っ」


 藤之助は絶句した。――これは、からかわれているのか。彼は顔をしかめると不知火の横にどか、と腰かけた。少女は相変わらずくすくすと笑っている。

「逢瀬ではない」

「でもおまえ、恋人が出来たのだろう?」

 不知火はにやにやして、仏頂面の青年をつついた。――自分のことだとでも言いたいのだろうか。ふん、と藤之助は鼻を鳴らすと、嫌みたらしい顔で返す。

「小娘の客をとった覚えはない」

「私は子供ではない」

 不知火は憤慨ふんがいした。そもそも私は客ではない、と横に座る不躾ぶしつけな男をぽかぽかと叩く。

 

 藤之助はふと思った。確かに不知火は客ではない。かといって友人かと言われると、それもぴんと来ない。でもそうだとしたら、この関係は一体何なのだろうか。

 

 この白藤の化生は、幼子のように無邪気に振る舞うかと思えば、甘やかな乙女のような嫣然とした姿を見せたりもする。月の満ち欠けのように変わる様は、見ていて飽きない。だが、それはただの興味で、恋情ではない。――ないはずだ。


 藤之助が黙り込んでいると、不知火は不思議そうに袖を彼の顔の前でぱたぱたとやった。青年はおもむろに少女の顔に手を伸ばすと、その両の頬をつまんで引っ張った。

「何をする」

 不知火はもごもごと抗議する。藤之助は何も答えない。否、答えてやらなかった。




 遠くの方に見える紫山の頂に日が落ちていくのが見える。頭上には燃え盛るような茜色の秋の夕焼けが広がっている。どこかで蟋蟀こおろぎが鈴のような声を切なげに響かせているのが聞こえた。二人は相変わらず縁側に腰かけたまま、ぼうっとそれらを感じていた。

 

 ふと、どこからか飛んできた葉がひとひら、藤之助の膝に音もなく落ちた。微かにつやを残したそれは、眼前の夕焼けを切り取ったかのように赤く染まっていた。青年は落ち葉を指でつまむと、小さく嘆息する。

 不知火はその様子に首を傾げた。

「何を黄昏たそがれている」

「黄昏れてなどいない」

 藤之助は落ち葉の軸をつまむとくるくると回転させた。赤い葉は手の中で蝋燭の炎のように震える。

 

 秋は嫌いではないが、生命が冬に向けて姿を変えていく様が、藤之助には少し息苦しく感じられる。この先に待つのはただひたすらに空漠と無音に覆われた虚無の世界だ。そこに向かっていくなど、まるで死に支度をしているようではないか――。彼にはそう思えてならなかった。


「――どうして、死があるのだろう」

 

 気づくと藤之助は、そう声に出していた。不知火は不思議そうな顔をする。

「生きとし生けるものは皆、そういう定めであろう」

「答えになっていない」

 青年は相変わらず落ち葉をもてあそんでいる。不知火はなおも首を傾げたまま、困ったように顎に指を沿えて考え込む。

「理由などあるのか? そういうものなのではないか」

 

 確かにそうかもしれない。それに理由がわかったところで、この定めが覆るわけでもない。

 

 藤之助は落ち葉をそっと庭に返すと、姿勢を崩し、戸袋の縁で器用に背を支えてもたれ掛かった。

 ふと別の疑問が頭をよぎる。


「死んだらどうなるのだろう」

「死んだら紫山に還る」

 

 不知火はとん、と庭先に降り立つと藤之助に向き合った。翠玉の瞳と目が合う。

「人は死んだら、魂となって紫山の頂に登る。そして藤の木に還る」

 白藤の化生は得意気に語る。藤之助の問いに今度は明瞭に解答できたことが嬉しいようだ。だが不知火の明るさとは裏腹に、藤之助は何か言いようもなく茫漠ぼうばくと、気分が塞いでいくのを感じていた。

「――藤の木に還った者は、どうなる」

「眠るのだ。穏やかな永久の眠りにつく」

 藤之助は目を伏せた。――なるほど、それは、


「何も、無くなるということだな」

 

 低く静かに紡がれた藤之助の言葉を聞くと、不知火はまたもや困ったように両の指を合わせる。

「無くなりはしない。還るのだ」

 同じような言葉を繰り返しているあたり、不知火にとってそれは当たり前の摂理で、深く考えるようなことではないのだろう。目の前の少女は、やはり化生なのだなと、藤之助は改めて実感した。


「――死は、終わりだ。何も残らない」


 藤之助は遠く、黒く陰った紫山を見つめながら、そう呟いた。


 父と母が死んだとき、残ったのものは遺骸いがいだけであった。それすらも埋葬してしまえば、二度と会うことはできない。死者は皆そうだ。生きていた頃の気配を何一つ残さずに、跡形もなく消えてしまう。その声も、温もりも、もう永遠にこの身体をもって直接感じることはできないのだ。


 夕日が、その姿を紫山の後ろに隠した。辺りは俄に暗くなる。藤之助と不知火は、秋の夜空を黙って見上げていた。

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