第四章
季節は夏になった。白藤の花はすっかり散ってしまい、青々とした葉が風にそよいでいる。湿った空気がじっとりと肌を覆うが、軒先に吊るした風鈴の瑞々しい音と、
それでも怠惰が日々身をもたげる彼にとって、この季節はあまり好ましいものではなかった。
じわじわと蝉の声がする。それに呼応するように緩く束ねた長い髪先を汗が伝う。男はこの上なく苛々していた。
「藤之助、花火しよう」
今まさに天上を焦げつかせている太陽のごとき暑苦しい男が、
「まだ昼間だ」
「今やるとは言ってないでしょ」
「――お前、夜までいるつもりか」
藤之助の眉間に、ぐっ、と
友人の殺気を感じると、織羽は手を止めてを振り返った。
「だって綺麗だよ? 花火」
「答えになっていない」
藤之助が苛々した様子で答えると、織羽は不満そうに口を尖らせた。
「だって、誰にも邪魔されずに花火ができそうな広いところ、ここくらいしかないじゃないか」
ここは河原か何かなのか。なんて図々しい奴だ。藤之助は呆れて、持っていた団扇を強くあおぐと綺麗に並べられていた手花火を吹き飛ばした。ああ! と織羽が残念そうに嘆く。
「もう、藤之助は今晩の
向日葵頭の男は散らばった花火をかき集めると、恨めしげに藤之助を
「
「言ってないからね」
この男は毎度飲食で気を引く以外に手がないのか。藤之助は呆れ返るも、結局はこの手段に屈して織羽の滞在を許している自分に気がつき、途端に少し決まりが悪くなった。今回こそは、と毎度思うも、退屈な日々のなか織羽がもたらす美味の数々が藤之助を
無言で考え込む絶世の美丈夫を見て、織羽はにっこりと笑った。
「花火と
藤之助は顔を覆って後ろに倒れ込んだ。
「――降参だ」
辺りをひんやりとした空気が漂い始めた。あれほど眩しかった空は、墨を溶かし込んだように暗くなっていた。今夜は月は見えないが、星がさやかに瞬いている。
二人はうっすらと汗をかく
織羽は深く溜め息をつくと、
織羽はふと、昔のことを思い出した。
織羽が藤之助と出会ったのはこの白藤の庭であった。藤之助が
幸い昼間だったため、
そろそろ戻ろうかというとき、ひとつの部屋が目についた。風通しのためだろうか、廊下から部屋に入る戸が開かれており、その奥に美しい白藤の花が植わっているのが見える。織羽は吸い込まれるように、その部屋へと足を踏み入れた。
たおやかに揺れる満開の白藤の下に、その人は立っていた。薄紫の
織羽は息を飲んだ。
その人は、泣いていた。
(――あのとき、どうして藤之助は泣いていたのかな)
涙の理由は、今もわからないままだ。
空になった
あの後、追いかけてきた師匠に見つかりこっぴどくしかられたが、それでも懲りずに、郭へと出向く師匠にくっついて行っては、あの少年を訪ねて――もとい追い回していた。
最初は冷たくあしらわれ―それは今も同じであるが―目が合っても無言で追い払われていたが、それでもしつこく構い続け、ようやく名前を聞き出すまでに至った。それからは
あの頃の藤之助はまだ少年らしく、その心の
――静かに燃える炎のようだ、と織羽は思った。
しかし、近頃はかつての鬼気迫るような情熱を感じない。縁側にじっと腰掛けて庭をぼんやりと眺めているばかりだ。すっかり消沈してしまった様子が、織羽にはどうにも気がかりであった。
織羽の視線に気づくと、藤之助は
「なんだ」
この頃抱いている疑念を、友人に打ち明けていいものか――。織羽は
珍しく言い
風がそよいだ。軒先の風鈴がちりちりと涼しげに揺れる。――穏やかな夜だ。こんな時間がずっと続けばいい。ふと藤之助はそう思った。
鼻先が冷えるのを感じて、青年は目を覚ました。腹にはいつも着ている羽織が掛けられている。どうやら眠ってしまっていたようだ。辺りを見渡すが既に帰ったのか、織羽の姿はない。羽織は藤之助が寝冷えしないようにという彼の計らいだろう。
寝転がったまま庭を見やる。今宵は月こそないが、満天の星の光が降り注いでいた。白藤の木は星明かりを受けて、その葉を白銀に輝かせている。
「――美しいな」
藤之助は思わず、そう口にしていた。
「今、美しいといったか」
突如、縁側からぴょこんと
「子供はもう寝る時間だ」
「おまえ、私を追い払うのはいい加減諦めたらどうだ」
「――近い」
藤之助は不知火を手で払い除けると、上半身を起こした。床に寝そべっていたからか身体があちこち痛む。
「なあ、今日もあの向日葵みたいな頭の男が来ていたろう。二人で何をしていたのだ?」
不知火はぞんざいな扱いをものともせず、にこにこと話しかけてくる。――織羽といいこの白藤の
「花火だ」
「花火?」
白い少女は
「――知らないのか」
藤之助の問いに、不知火は首を横に振った。どうやら本当に知らないらしい。――確かにこれは山に棲む化生だ。人間の遊びについて詳しく知らないのも無理はない。
藤之助はわずかな光明を頼りに辺りを探した。どこかに織羽が持ち込んだ花火が残っているかもしれない。ふと
ちりちりと音を立てて、それは燃えた。彼岸花の花弁のような形に瞬く火花に、不知火の目は釘付けになった。
「声を出すなよ。静かに、そのまま見ていろ」
藤之助は声を潜めてそう言うと、その様子を静かに見守っていた。不知火は言われたとおり、息を殺して火花が弾けるのを、膝を折って見つめていた。しばらくそうしていると先端に火の玉が実る。それはぽってりと膨らむと、刹那、地面へと砕け散った。
不知火は、ほう、と溜め息をつくと、うっとりと首を
「これは――なんとも美しい」
その表情に、藤之助は思わず見入ってしまった。いつもは幼子のように無邪気なその顔が、今は何故か大人びて
不知火は手に残った燃え殻をしばらく見つめていたが、ふと思い立ったように立ち上がった。そのまま伸びをすると、星空を仰いだ。
「花火、まるで星のようだった」
両手を天にかざすと、何かを握り込むような仕草を見せた。
「あの星々はこんなに近くに見えるのに、決して、手が届かないんだ」
不知火は振り返る。星の光に照された白藤の化生は、夜闇に眩く煌めいていた。
「けれど今日、初めてそれを手にした気がした」
人間はすごいな、と噛み締めるように言うと、白い蝶のように
その姿に、藤之助は思わず見惚れた。――これは化生だ。まさしく自分は化かされているのかもしれない。
ぼんやりとそんなことを思いながら、藤之助は頬杖をついて、いつまでも美しく舞う白藤の化生の姿を眺めていた。
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