第三章

翌日、藤之助ふじのすけは昼過ぎに目覚めた。日が高く昇り、光が燦々さんさんと降り注いでいる。障子越しにも陽射しは強く、鈍く目に染みる。寝疲れした身体を起こすと、少し痛む頭を押えて庭に面した戸を開けた。庭の隅にある小さな井戸で顔でも洗おうと思ったのだ。


 今日も変わらず藤の香りが満ちているが、昨日の日暮れまでは感じられていた清々しさは、昨晩の恐ろしい記憶にすっかり塗り潰されてしまっていた。彼は用心深く辺りを見渡すも、昨日の少女、――不知火しらぬいの姿は見えなかった。ほっと胸を撫で下ろすと、庭の端へと歩いていく。


 土を踏むと、晩春の気が心地よく藤之助の身体を包んだ。その暖かさに幾らか心が軽くなる。ひらひらと舞う白い蝶を水先人に、奥まった木陰へと歩を進めると、すぐに井戸が現れた。周りには木が繁り、日を遮っているため、この一画はひんやりとしている。


 釣瓶つるべを上げると桶にはよく冷えた水が並々と湛えられていた。彼はそれをばしゃばしゃと無造作に顔にかけた。頭がすっと冷えていく。


(――昨日のあれは、やはり酒が見せた幻に違いない)

 

 腰に下げていた手拭いで顔を拭くと、深く息を吸い込んだ。新緑の青臭さが鼻を抜ける。すっかり目が覚めたところで来た道を振り返ると、そのまま固まってしまった。


 目の前で、暗がりでもなお真っ白に輝く不知火が、満面の笑みで手を振っている。


「また来たぞ」

「――昼にも出るのか」

 藤之助は距離をとるべく後ずさったが、すぐに井戸に背が当たってしまった。


(――逃げられない)


「今日は昼間に来たからな。店じまいまで時間があろう?」

 不知火は駒鳥こまどりのように愛らしく小首をかしげる。肩口までにきれいに切り揃えられた生糸きいとのような髪が、さらりと流れる。その様子が神々しいがゆえに、男はかえって恐ろしくなった。


「――小娘とは寝ない」


 やっとの思いで絞り出すも、そう言われた不知火は不思議そうな顔で藤之助を見る。


「起きたばかりなのに昼寝とはおかしなやつだ」


 こいつはここがどういう場所かわかっていないのか、と藤之助は折角収まった頭痛がぶり返すような気がした。紛いなりにも神を名乗る者がそんなことを知らないとは思えない。くるわが何をするところかもわかっていないとは、大方どこか生け垣のほころびか何かから近くの子供が悪戯いたずらしに潜り込んだというところか。――それにしても昨日のことといい、その姿かたちといい、どうにも真実味に欠けてはいるが。


「――帰れ、ここは子供が来るような場所ではない」

「私は子供ではない」


 むっとした顔で不知火は返した。

共寝ともねがどういう意味かもわからないのだから子供だろう」

 なおも首を傾げている不知火の様子を見ているうちに藤之助の恐怖は薄れ、次第に苛立ちへと変わっていった。道理のわからない子供の相手をする趣味はない。意を決して真っ白な少女の方に歩を進める。


「どこの子供か知らないが、お前の相手をする気はない。帰れ」


 何か言い返そうとする不知火を退けて、彼は庭へと歩いていく。少女は口を引き結んでその背を見つめていたが、すぐに後を追っていった。

「ついてくるな」

「たまたま帰る方向が同じだけだ」


 二人が言い争いながら歩いていると、いつの間にか白藤の木の前まで戻ってきていた。不知火は、ほら、と白藤の木を指差す。

「私はずっとここにいたのだ。おまえが来るずっと前から」


(――俺が来る前から?)


 眉を潜める藤之助をよそに、彼女は続ける。

「おまえがここに来る前にこの部屋をよく使っていた女は『柏木かしわぎ』という名だった」


 「柏木」は、かつてこの郭で一番の人気を誇った娼妓しょうぎだ。藤之助が来る数年前に他界したので会ったことはないが、この部屋から見る景色が大層気に入っていたという話は耳にしたことがある。しかし柏木はこの界隈ではあまりに名の知れた娼妓だ。どこかで聞き齧ったことを言っているだけではないのか――。


「でも『柏木』はここでの仮の名で、本当は三千代みちよというのだと教えてくれた」


 藤之助は瞠目した。

 郭の人間は、外の人間はおろか同じ郭に生きる人間にさえ、その本名を明かすことは滅多にない。それはその名を馳せた柏木でさえ例外ではなかった。


 藤之助がここを訪れたとき、最初に渡されたのが柏木の残した手記であった。そこには娼妓としての心得や芸事の勘所かんどころなどが綴られていたが、その最後の頁に「三千代」と書き記されていたのを、鮮明に覚えていた。だが柏木の手記は楼主ろうしゅが管理しており、読むことができる人間は限られている。つまり「三千代」の名を知る者は、この郭にもごく少数しか存在しないのはずなのだ。


 それをこの少女は知っている。それも何年も前に他界した本人から直接聞いたというのだ。昨晩の寒気が蘇り、男は背筋を凍らせた。目の前の少女が途端に得体の知れない異形いぎょうに見えてくる。


「どうだ、信じたか?」

「――誰から聞いた?楼主か、柏木の家の者か」


 なおも疑いの眼差しを向けてくる藤之助に不知火は困ったように首を傾げる。――どうすればこの男の疑念を晴らすことができるだろう。

 と、その時はたと思い出した。


「藤之助、あの部屋の隅に小さな箪笥たんすがあるだろう。それの一番下の抽斗ひきだしを抜いてみろ」

「――なぜ箪笥があることを知っている」


 少女は、いいからといぶかしむ青年の背を押して、部屋まで行くよう急かす。


 確かにこの部屋には箪笥がある。しかし不知火の言うとおりそれは部屋の隅にあって、戸を開いても死角に入る位置にあるので外から来た者には見えない。昨晩からずっと見ているが、この少女が部屋に入る機会はなかったはずだ。


 藤之助は悪寒をこらえながらも、言われたとおり箪笥の抽斗を抜いた。中は空だ。別段変わった様子のない、なんの変哲もない抽斗だった。


「抽斗があったところを覗いてみろ。――隠し箱があるはずだ」


 だからなぜそんなことを知っているんだと、彼はかぶりを振りたくなったが、しぶしぶ中を覗き込んだ。――あった。そこにはうっすらとだが確かに切れ込みがあり、木の蓋がめ込まれているのが見える。男は恐怖に震える指でそれをそっとつまみ上げた。すると、すっ、と木の擦れる音をわずかに立てて、それは開いた。


 中には小さな寄木細工よせぎざいくの箱が一つ、つと収まっていた。


「それはからくり箱なんだ。貸してみろ」


 不知火は白く小さな手を藤之助に差し出した。言われるがままに、彼は少女の手にからくり箱を乗せる。彼女は細い指で器用に仕掛けを外していった。最後の一片がかちゃ、と音を立てると、それは静かに開いた。

 

 そこには一本の煌びやかなかんざしが、天鵞絨ビロードの敷布の上に横たわっている。

 

 少女はそれを丁寧につまみ上げると、ほら、と先端を指差した。

「ここをよく見ろ。『三千代』と書いてあるだろう」

 

 藤之助は恐る恐る顔を近づけてみる。確かに、簪の先の方には「三千代 誕生祝」と記されていた。彼は首の後ろを何か得体の知れないものがぞわぞわと這うような感覚を覚えた。


 こんな簪は初めて見る。これは柏木が残したものだろうか。楼主や古参の娼妓からもそんな話は聞いたことがない。そもそもこの抽斗に隠し箱があることさえ知らなかった。この箪笥は柏木がなじみの職人に作らせたものだと聞いているが、恐らくこの郭の誰も、この抽斗の存在すら知らないだろう。


 凍りつく男を、白藤の化生は昨晩のように、うっとりと首を傾げて見つめた。

「どうだ、これなら信じてくれるか?」


 藤之助は無言で頷いた。ここまでくると、もう嫌でも信じるしかない。


「――藤の化生が、俺に何の用だ」


 かろうじてそう返すと、藤之助は警戒の色を露に目の前の白い少女を睨んだ。氏神だか化生けしょうだか知らないが、こんな得体の知れない奴に目をつけられる覚えはない。

 彼女は、やはり不思議そうな顔をして、

「いや、別に用はないぞ。目が合ったから話しかけただけだ」

 とあっけらかんと答えた。拍子抜けして固まる藤之助に構わず、不知火は話し続ける。


「柏木がどこかに行ってしまってから、長いこと誰とも目が合わずにいて退屈していたのだ。しばらくしたらおまえがこの部屋をよく使うようになったから、ずっと眺めていたが、ちっとも目が合わない。つまらないので仕方なしに、ずっと観察していた。昨夜もそうだった。そうしたらなんと目が合ったではないか! 私はそれはそれは嬉しくて嬉しくてつい話しかけてしまったのだよ。それなのにおまえときたら帰れ帰れと私を邪険にして――」


 長々と捲し立てる少女を、男がは手を挙げて制した。まったく話が見えない。


「――つまりお前は、俺がここに、この部屋に居着いたときにはもうこの藤の木にいて、ずっと俺を見ていたということか?」

 ふむ、と不知火は頷く。

「それで、昨日やっと目が合って、話しかけてきたと」

 ふむふむ、と不知火は頷く。

「つまり、俺を呪ってやるとか、祟ってやるとか、そういう意図はないのだな」

「だから、私は幽霊ではない!」


 白藤の化生はじたばたと足を踏み鳴らして怒る。藤之助はその様子を呆然と見ていた。

 どうにもこれには威厳がない。織羽が脅かすのでてっきり恐ろしいものかと思い込んでいたが、とりあえず害意がないのならよい。――いや、よくはない。これのせいで昨晩の花見は台無しになってしまったのだ。唯一の趣味といってもいい時間を奪われ、なおかつ文句まで言われてはこちらの気が済まない。藤之助は段々と腹が立ってきた。


 彼は軽く息をつくと、ぴしゃりと戸を閉じた。不知火が、ああ! と叫んでいるのが聞こえる。


「帰れ、そして二度と来るな」

「嫌だ!」


 不知火はは駄々をこねる。その様子は子供そのものである。化生だか幽霊だか知らないが、こんな子供の相手なんて真っ平御免だ。


 その時、外でぶわっと強い風が吹いた。戸が激しく音を立てる。がたがたと揺すられるとそれは突如、勢いよく開いた。藤之助は思わず飛び退いた。ごうごうと風をまとい、白藤の花房を巻き上げながら、白藤の化生は宙に浮いて彼をめつける。


「私は、ずっとここにいたのだ。帰るも何も、ここが私の居場所だ」

 

 その言葉に藤之助は、はっとした。


 居場所、それは彼がこの郭でずっと探して求めてきたものである。


 唯一の血縁である妹とも別たれ、寄る辺なく独り生きていくしかない藤之助にとって、それは常に焦がれ続けるものであった。この死の気配に満ちた牢獄のような場所で、どうしようもないやるせなさを抱えながら、彷徨い彷徨い、いよいよ精も根も尽き果てたある日、辿り着いたのがこの白藤の木の庭だった。

 白藤のたおやかな揺らぎが、凛とした香りが、藤之助のささくれだった心をそっと癒してくれた。この場所に出会ったときの安らぎを、胸が締め付けられるような愛おしさを、今でも鮮やかに思い出せる。


 藤之助は目の前の少女を真っ直ぐに見る。その、いまにも泣き出してしまいそうな顔が、彼を見つめていた。脳裏にふと、ある日の光景が蘇る。誰より大切な妹の手を離した、忘れられないあの日の光景が――。


「――悪かった」

 藤之助は、ぼそりと一言、そう呟いた。


 庭を渦巻いていた風が、ぴたりと止んだ。不知火はすうっと地面に足を着いて小股で恐る恐る近寄ってくると、その場に座り込む青年の顔をそっと覗き込む。


「もう、帰れと言わないか?」

 その不安げな姿が、なんだか雨に濡れた子犬を思わせて、彼は思わず眦を和ませる。

「言わない」

 少女はそれを聞くと、春の日溜まりのような笑顔を浮かべて、うん、と頷いた。


「――急に怒ってすまなかったな」

「もういい」


 藤之助はふう、とひとつ息をつくと、戸袋の縁で器用に背を支え、そのままもたれ掛かった。なんだかどっと疲れが吹き出してくるのを感じる。不知火は嬉しそうに縁側に手をついて小鳥の囀りのような声で、早口に捲し立てる。


「それなら聞いてほしいのだが、おまえ昨日、たんぽぽ頭と何か食べていたであろう?あれはなんだ?私にも――」

「お前と話すとは言っていない」


 ぴしゃりと藤之助は話をさえぎった。おしゃべり好きな白藤の化生は、むう、とむくれる。


「おまえ、私の話を聞かないとひどいぞ」

「その手には乗らん」


 不知火は、ふん、と鼻を鳴らすと、やおら目を細めてにやにやと笑いだした。

「何がおかしい」

 藤之助は訝しむ。


「おまえ、私を幽霊と思っていたろう。それで私に呪われるのが恐ろしくて怯えていたな」

「それがなんだ」


 白く眩い少女はうっとりと首を傾げると、陶器のように透き通った白い指先で男の額を突いた。途端に身動きがとれなくなる。


「――っ」

「私は紫山は白藤の化生。まあいわば、おまえたちの言うところの『神』にも等しい存在だ。おまえは呪いを恐れていたな。私は神だ、人間を呪い、たたることなど造作もない―」


 藤之助は息を飲んだ。言うことを聞かないと呪い殺すとでも言うのか。


「――ということはだ。おまえたちを呪いや祟りから退けることもできるということだ!おまえはいけずだからな、いまに袖にした奴らに呪われてしまうぞ。どうだ、私と仲良くしないと、おまえを守ってやれないぞ!」

 白藤の化生を名乗るこの郭の氏神とやらは、自信に満ち満ちたしたり顔でそう言い放った。

 

 藤之助はここ最近で一番の脱力を覚えた。


「お前、やっぱり帰れ」

 なぜそうなる!という不知火の慟哭が晩春の麗らかな白藤の庭に響き渡った。

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