第二章
日が暮れると、
この部屋はもともと客室であるが、
涼しい夜風が藤之助の前髪をそっと梳く。今日も幾度となく嗅いだ藤の香りが、やはりやわらかく身体を包んだ。酒を
強い風が吹いた。白藤の花房がざあっと舞い上がる。いよいよ香りが庭じゅうに満ちると男は息を深く吸い込んで、そっと
藤の花の命は一瞬だ。今この瞬間を身体に焼き付けたい。藤の香りが身体を巡るのを味わうと、藤之助はゆっくりと目を開いた。
その
(――飲み過ぎたか)
ここのところの怠惰な暮らしが
また一陣の風が吹く。白藤の花房がめくれ上がり、枝が
「――っ」
藤之助は思わず息を飲んだ。抜けるように白い肌に白い髪、白い着物を纏った、真っ白な少女が、橅に絡まる藤の、一番高い位置にある枝に腰掛けて、白い
「――おまえ、私が見えているな」
白銀の月に照された白く眩い少女は、うっとりと首を傾げると、薄紅色の唇を開いて確かにそう言った。
あまりのことに、藤之助は硬直した。さっきまで藤の木の周りには誰もいなかった。昼からずっとここにいて、この庭で起こる一部始終を眺めていたのだから間違いない。昼間の
「――出た」
「出たとはなんだ、出たとは」
白い少女は枝からすとんと地面に降り立つと、不満げに足を鳴らして近づいてくる。藤之助は思わず後ずさった。
「私はずっとここに居たぞ。おまえに見えていなかっただけだ」
少女はずんずん進むと、突如、縁側の前に両手を広げて立ち、はち切れんばかりの満面の笑みで彼に話しかけた。
「私が、見えているのだな」
当の藤之助はとうとう気が狂ったと思った。酒が見せる幻にしては真実味がありすぎる。かといって目の前の存在は、あまりにも浮世離れしている。あんな高いところに上れる人間も、そこから無傷で降り立てる人間もこの世に居やしない。それでもこの少女はそれをやってのけて、そして確かに自分の方を見て、話しかけてくるのだ。
男がかろうじて頷くと、少女はいよいよ嬉しくてたまらないといったように跳び跳ねる。不気味には違いないが、その無邪気な様子に、彼の心は幾分か落ち着いてきた。
「お前は、なんだ?」
かすれた声を絞り出して、藤之助は少女に問うた。少女は嬉々として答える。
「私は
不知火と名乗る少女は、口を開こうとした藤之助に人差し指を突き出して遮る。
「おまえの名前は知っているぞ。藤之助だろう」
少女は得意気に、ふふん、と鼻を鳴らした。
名乗るつもりで口を開こうとしたわけではなかったうえに、名前を当てられた藤之助は恐怖を覚えつつもどこか腹立たしくなってきた。この人の話を聞かない感じが誰かに似ている―。
「その名で呼ぶ者は、ここにはいない」
郭に生きる
彼の返答に、不知火はきょとんとして首を傾げた。
「そんなはずはない。よくここに出入りしているたんぽぽ頭がおまえをそう呼んでいるのを聞いた。」
(――たんぽぽ頭、織羽のことか)
「確かにそれは俺の名だが――」
「ならやはり藤之助なのだな」
やはり人の話を聞かないところが
「――待て、お前いま、藤の化生といったか?」
いかにも、と不知火は胸を張って応えた。藤の化生、つまりは藤の精。ということは―
「――幽霊」
「幽霊じゃなくて、化生だ」
不知火は憤慨する。――どっちでもいい。否、状況は悪い。見えなければいないのと同じだったのに、見えてしまっては「いる」ことになってしまう。なんということか、俺はこの藤を平穏に眺めていたかっただけなのに――と藤之助は頭を抱えた。
「帰れ、今日は店じまいだ」
藤之助は障子越しに見える不知火の影にそう言い放った。不知火は何事か言い募っているようだったが、
「また来るぞ」
と声がしたかと思うと、その影はふっと消えてしまった。男は慌てて戸を開け放つも、そこにはもう不知火の姿はなかった。
「――本当に、出た、のか」
腰から力が抜けて、その場にへたり込む。やおら見上げると、つい先程までと変わらず白銀の月に照らされた白藤の花が、風にそよいでいる。
藤之助は呆けた顔で戸を閉めると、残っていた酒をあおる。たちまち喉が焼けるような感触がして身震いした。いよいよ今夜の出来事が真実起こったことであることが実感として、嫌でも身に染みてきたのだ。彼は急いで寝床に潜り込んだ。一晩経てば、これは夢だったことになるかもしれない。いやこれは間違いなく酒が見せた幻だ――。
固く目を瞑り布団に丸まると、しばらく身を強張らせていたが、寝酒が効いたのか、段々と眠りに落ちていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます