行く春の白藤へ
まめ童子
第一章
春日さす藤の裏葉のうらとけて君し思はば我も頼まむ
少年は、遠ざかる妹の小さな背をいつまでも目で追っていた。まだ十になったばかりの妹は、大人に手を引かれながら、いくらか歩いては首を反り、泣き腫らした赤い目をこちらに向けてくる。
少年はふと
二人にはわかっていた。これはもうどうしようもないことなのだと。兄と妹。時が
しかし幼いこの兄妹にとって、――それも両親を立て続けに失ったばかりとあっては、それは身を引き裂かれるような別れであることは言うまでもない。
だが兄は決意したのだ。これが今生の別れになろうとも、妹のこの先の生が健やかであるために、この道を選んだ。
(
妹、藤枝は深く息をつくと、すっと背筋を正して、まっすぐ歩き始めた。もう兄を振り返ることはない。
小さくなるその姿を焦げつくほど目に焼き付けると、少年は藤枝に背を向けて己の進むべき道へと踏み出した。彼がこれから踏み入れるその道は、険しく、そして苦しい。
しかし、少年もまた、振り返ることはしない。
(藤枝、どうか穏やかに)
少年はふと立ち止まると、祈るように目を閉じた。
――藤枝、どうか、幸せに
***
その青年は今日もぼんやりと庭の藤の木を眺めていた。紫煙を燻らせる手が気怠げに、小さく弧を描く。
立派なたたずまいにそぐわず棚のひとつも
「――そろそろ春も終わるな」
彼は独りごちると、すっかり燃え尽きた
(この
青年は男娼であった。
――まるで火が消えたようだ。
なじみの客や郭の者たちは皆、口々にそう噂する。
ここ数日は身の回りの世話をする
「
快活な声がすると共に、部屋の戸が勢いよく開かれる。丸い金縁眼鏡をかけ、同じような色合いの癖毛を備えた青年が満面の笑みで立っていた。
藤之助と呼ばれた青年は、やはり気怠げに顔をそちらに向けた。藤色の着物でゆるく包まれた
「帰れ」
藤之助はあっちへ行けとばかりに煙管を振る。
「ご挨拶だなあ、ほんとは嬉しいくせに」
粗雑な扱いを意にも介さず客人はずかずかと部屋に入り込んでくる。藤之助は顔をしかめると、これ以上の議論は無用とばかりにそっぽを向く。
彼はそのまま藤之助の隣に腰かけると、すぐさま話し始めた。
「今日も藤の花を見てたの?藤といえばお隣の藤屋の饅頭が――」
「
ぴしゃりと客人、――織羽の言葉を遮ると、藤之助は再び煙管に火を点けた。紫煙が肺に満ちた藤の花の香りを塗り潰していく。
織羽はやはり気にしていないという風に、隣でだらしなく縁側に腰かけている仏頂面の友人の顔を、
「藤屋の饅頭が、藤饅頭になってたんだけど、それなら藤之助の分は無しだね」
ようやっと織羽の方を向くと、藤之助は不満げに返した。
「――食べる」
「藤といえばさ、この郭の氏神様は藤の木の精なんだってね」
饅頭の残り香を茶で
友人の反応を待たず、織羽は続ける。
「ご
織羽は声をひそめ、にやりと口角を上げると不気味な表情を作る。
「――出るらしいよ、ここ」
煙管の燃え殻を投げやりに地面に打ち捨てると、藤之助は横のおしゃべりな男に向き直り、顔を軽くしかめた。
「やっぱりお前の話はつまらない」
「お饅頭食べたじゃない」
首をすくめた織羽は不満げに抗議する。折角気に入ると思って饅頭を買って寄越したのだから、その分、話を聞くべきだということか。藤之助はいっそ、それなら饅頭は食べなかったと言ってやろうかと思ったが、結局そんな気力は湧いてこず、仕方なく織羽の話に付き合うことにした。
「――郭に幽霊なんて、別段珍しくもない」
地面に落ちていた白藤の花びらをつまむ。まだ花弁が散る時期ではないが、風に吹かれてちぎれたものが飛んできたのだろう。指で揉むとほのかに香った。
ここは
「幽霊じゃなくて、藤の精だよ」
「藤の精?」
そう、と応じると織羽は庭に降り立った。両手を胸の前にだらりと垂らすと、藤の花房を真似ているのか、ふらふらと左右に振ってみせる。
「いまもここにいるかもよ?」
ふん、と鼻を鳴らすと藤之助は煙管をくるくると手の中で回す。
「どうせ見えないんだから、いないのと同じだ」
「もう、夢がないなぁ、藤之助は」
織羽はやれやれと呟くと、おもむろに小石を蹴りながら庭をふらふらと歩いていってしまった。話したいことは話しきってしまったので、他の
まったく気紛れな奴だと、藤之助は嘆息する。
(――夢など、ない)
また藤の花弁を拾って潰すと、男はじっとその指先を見つめた。先程まで白く生き生きとしていた花びらが、ぼろぼろに砕け、湿っている。それを見つめていると、彼の思考は深く沈んでいく。
十三でこの郭にやって来た。
両親が相次いで死に、商いを
ここに来てからはただひたすらに勉学、芸事と修練に励み、客を取るための
そしてある時ふと思った。
風が吹いた。白い藤の花が揺れる。その香りが、藤之助の記憶の底をそっと撫でた。
泣き腫らした赤い目が、不意に浮かぶ。
(――藤枝)
いつか別れた妹の名を、藤之助は心の中でそっと呟いた。
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