File2-5 服膺は緋の海に溶ける

「何故君は避難している? どうせ死なないだろう」

 時計塔の屋上に、不老の彼はいた。

「馬鹿かお前は。あんな濁流に呑まれてろってか?」

 ジオから噴き出る血の量は加速度的に増加し、今や主要な街道を川にしてしまっている。

「ジオなんだろ? あれ」

「ああ。彼を殺した」

 何も隠す事なく、アノンは真実を告げる。

「やっぱりあいつは悪魔だな」

「これでも彼は元人間だ。悪魔などと呼んでくれるな」

「いいや、悪魔だよ。……少なくとも、俺にとってはな」

 男は暫く濁流を眺めていたが、私とアノンの方を向いた。

「俺を、殺してくれるんだろ?」

 その時が来た。約束通り、私はこれからこの男を殺す。


「殺すって、どうすればいいの?」

「簡単な事だ。ただ普通の人間のように殺せばいい」

「でも、この人って死なないんだよね」

 不老と不死は別物だが、それらが共存する事は珍しくもない。実際、目の前の彼は自身を不老としか語っていなかったが、彼が不死でもあるという事は彼が死を私たちに縋っている事からも明白だ。

「何度か話したが、全ての世界において我々の法則が優先される。彼を殺すというこちらの意思と、絶対に死なないという彼との矛盾も当然、こちらが優先される。ただ彼を殺せば、我々の常識通りに彼は死ぬだろう」

「うーん、なんだか複雑だね」

「単純だ。我々が上にいる。それ以上の法則は無い」

「早くしろ。この世界に留まっていると頭が狂っちまいそうだ」

 男に催促され、私は虚空から紫の細剣を取り出した。

「……じゃあ、いくよ」

 私は剣を構える。今すぐにでも突き刺そうとする勢いだが、私は最期に彼に尋ねる。

「名前、聞いてなかったね」

「無い、と言っただろう」

「でも、過去にはあったんでしょ?」

「言っても無駄だろう。名前は必要か?」

「必要だよ。区別と、記憶の為にね」

 自論だ。名前を持たなかった私が導いた、名前の意味。名前とは同一のものを区別するという役割の為だけに存在するものではない。記憶だ。名前を知るだけで、記憶というものはよく残るようになる。先の世界のナノやエクサ。それからサヴァルにステラ。まだ少ないが、名前には特別な意味があると信じている。


「……アレフ。アレフ=ウィフォム」

 少しの間の後で、彼はその名を告げた。

「あなたの名前ね」

「いいや、与えられた名前はもう忘れた。これは俺が最後に、一番長く使ってた名前だ。偽名で悪かったな」

「それでも、あなたの名前でしょ。良かった。最期に聞けて」


「……アディ、頼む」

 アレフが、自身の心臓を人差し指で叩く。

「……ありがとう、アレフ。短かったけど、私はあなたを忘れない」


 そうして、勢いよく彼の心臓に細剣を突き刺した。


「……ありがとな」


 彼はそれだけを言い残し、瞼を閉じた。彼は死んだ。




 あんなに軽く実行に移せたのに、私の腕がとても重く感じる。たった今私がしてしまった愚行を、私は後悔している。

「……ぁ……ぅ」

 声にならない悲鳴をあげるが、それを聞く者はアノンしかいない。そして、呻き声は消えた。

 プツンと。何かの糸が切れるような感覚があった。その瞬間、それまで私に伸し掛かっていた重圧が急に消えた。私の中の何かが外れ、もう元には戻れないという感覚。私はそれの正体を知っている。


「……人、殺したくなかったのに」


 この日私は初めて、剣で人を殺した。




    ■    ■    ■




 数刻が経ち、消沈していた私はなんとか落ち着いた。

「アノン、その本ってこの世界のやつだよね」

 私とアノンはそのまま時計塔の最上階に留まっていた。既に世界は緋の海に染まり、非常にゆっくりだが海面は上昇している。他の建物は沈んでしまった。この塔が呑まれるのも時間の問題だろう。

 私たちの立っている場所に、本が積まれている。アノンがこの世界の書店から持ち出したものだった。

「あの不老の男が遺していたものだ」

 男は作家だと言っていた。

「不老の男じゃなくて、アレフだよ。それ私も読んでみていい?」

「構わない」

 地面に積まれている中の一冊を手に取り、読み始める。そこに書かれていた物語は、あの男の主観だった。彼がこの世界で見たものが、旅行記として丁寧に記されていた。

 しっかりと、一文一文を目で追う。彼が記したこの世界の情景を、脳裏に思い浮かべる。


「……なんだ、嘘吐き……」


 声を漏らす。

「すごい大事にしてたじゃん。この世界のこと……!」

 思わず涙が溢れてしまう。彼は本当に死ななくてはいけなかったのか。本当に、死にたがっていたのだろうか。

「アノン」

「どうした」

「……私、この本は持っていけないや」

「ああ。では、私が持っておこう」

「……それもダメ」

 私は本を血の海に投げ捨てた。続けて、積まれていた本を次々に海に放り投げる。

「……何も言わないんだ」

 半分ほど投げたところで、私はアノンに言った。

「止めて欲しかったのか?」

「アノン、本好きそうだったから」

「私は止めないさ」

「……ふうん」

 私は再び、本を投げ始めた。




 全ての本を投げ捨て、この塔には私とアノンのみが残る。

「出発だ」

「うん」

 私は銃を取り出し、上に向ける。引き金を引こうとした瞬間、私は後方から視線を感じた。


 アノンもそれには気付いていたようだが、彼が振り返る事はない。そこにいる存在を、アノンは決して視認しない。


「……フィリスさん」


 時計塔以外で唯一残っている、もはや小島となった駅の屋根上に、その特徴のない女性は立っていた。彼女が、言葉を発した。






『世界を越えた罪人が創り上げた平穏な世界は、調停者の制裁により崩壊したの。……これ以上は、語る事はないの』


 そうして、フィリスは足で軽く地面を叩いた。瞬間、世界は綴じられた。

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