File2-2 フィリス

 昼食を終え、私は適当に外を歩いていた。部屋にはいつのまにかアノンが用意したと思われる高級そうな傘が置かれていて、私はそれを持って外へ出たのだが、残念ながら雨は止んでいた。私が傘を落とすと、それは地面に落ちる前に消えていく。傘は"アディの手持ち"に収納された。これも、アディという個体の性質が世界のルールを逸脱している事によるものなのだろう。今この世界の総質量は、傘一つぶんを失った。


 私はアノンの事について悩んでいた。

 アノンは想像以上に私に対して優しい。望むことは文句を言いながらもしてくれるし、私にとって良かれと思う事も気づかないうちにしてくれている。アノンにとっての私は何か、というのを私は少しだけ考えるが結論は出なかった。

「お昼、おいしかった……」

 最後に摂ったまともな食事は、私の出身の世界で魔族が攻めてくる前の事だった。……何を食べていたかは覚えていないが。

「いや、多分その辺の情報がないんだよね」

 アノンがよく言っている通り、世界に不必要な情報は省かれる。私が普段から食べていたものなど、何でもよかったのだ。

「さて……」

 暇である。好きに過ごしてくれと言われたが、何をしていれば良いのだろうか。

 この世界はおよそスチームパンク、というジャンルに纏められる。このような世界がある事は知識としては知っているのだが、実際に来るのは初めてだ。少しだけわくわくしているというのもあるが、やはり一人だと寂しい。



「アディ」



 突然、私は後ろから声をかけられた。……アノン以外からその名前を呼ばれる事がどれ程異常か、私にはわかっていた。だからこそ、私は警戒した。

 ゆっくりと振り向くと、そこには一人の黒髪の女性がいた。普通、そうとしか言い表せないほどの、いつでも背景に溶け込めそうなどこにでもいる人間。特徴を語る事さえも難しいだろう。

「そんなに驚かなくても大丈夫なの」

 優しい声。

「私を知ってるの?」

 私が尋ねた直後、私は彼女に会った事があるかのような錯覚を覚えた。会った事など無いはずなのに。

「ちゃんと知ってるの。でも今はちょっと時間が無いから用件だけ話すの。あ、私の名前はフィリスなの。一応はじめまして、なの」

 彼女は周囲を探るように見渡し、何もないと判断したようで再び私を見た。

「アノンに会ったら伝えておいて欲しいの。"この世界は元第十二席が持ってる"って。それじゃあさよならなの。あ、ついてきちゃだめなの。私はアノンに見つかっちゃいけないの」

 彼女は後ろを向き、去っていく。

「あ」

 思い出したかのように、フィリスは再び振り向いた。

「やることがないなら駅の向こう側の工業区に行ってみるといいの。それと、この世界は壊さないでね。アノンにも言っておいて」

 そして、今度こそ去っていった。


「……何だったの?」


 私の事を知っている。という事はつまり、フィリスと名乗ったあの女性は世界の外側を知っている。もしくは私たちと同じように世界を自由に移動できる存在なのかもしれない。

 私と同列の存在は私が最も危惧していたものだが、不思議と彼女の事は敵だとは思えない。追おうとしなかったのも、私自身が彼女の事を警戒していないためだ。興味はかなりあったが。

「……あとでアノンに聞かないとね」

 フィリスについては保留し、私はフィリスが言っていた工業区を目指し歩き始めた。



    ■    ■    ■



 工業区。この街の半分を占める、国の発展に最も貢献している区域だが、その惨状は決して良いものでは無かった。

 建物と建物の間からは捨てられた子供がこちらに目を光らせており、工場の中を除けば劣悪な労働環境が垣間見える。

 幸いにも私の服装は裕福なものとは呼べず、質素な白の薄着の為この貧民街のような空間に溶け込めている。

「お前、ここに来るのは初めてか?」

 屈強な大男に声を掛けられる。体格差だけを見れば相手は脅威となり得るだろうが、私は彼に対して一切の恐怖を感じていない。

「……ここ、おもしろくない」

「当たり前だろ」

 どうやら私はフィリスに騙されたらしい。

「とっとと帰りな。お前みたいな生活に余裕のある奴が来る場所じゃねぇ。ほら、あれ」

 大男が指を差す方向には工業区のシンボルとも呼べる時計塔が立っており、その展望台となっている最上階に人影があった。

「今日は厄日だな。死者が増える」

「あの人、死のうとしてるの?」

「ここじゃ珍しくねぇよ。あそこから飛び降りるのが一番楽で迷惑の掛からない死に方だからな」

 時計塔の下は空き地になっており、迷惑が掛かるのは下の工場のその日の清掃担当のみだ……と男が補足する。

 人影が揺らいだ。

「覚悟が決まったみたいだな」

 後ろを向き、ゆっくりと重心を後ろへと傾けて、時計塔の上のソレは仰向けに落下を開始した。


「……私の前で死なないで」


 一言、呟く。瞬間、私は常人では成し得ない速度で駆け出し、一瞬で塔の真下へと移動すると、垂直に十メートルほど飛び上がった。……そして、落ちる人間を両手で抱え、ゆっくりと地面に戻る。

 私と同じくらいの歳の、若い少年だった。少年は気を失っているようだったので、そのまま地面に寝かせた。

 高速で移動したというのに、周りへの影響は一切ない。私の周囲に突風が巻き起こったり、飛び上がった反動で地面が凹んだりする事も無い。世界の法則から逸脱している、という私の状態を実感する。

「……もう、死にたいなんて思わないでね」

 私は虚空から傘を取り出し、それを寝ている少年の頭の下に敷く。少年が目覚める前に、私はこの場を離れた。少年がこの後に辿る運命は知らない。私の自己満足なのかもしれない。ただ、人間を救った気分に酔いたかっただけと言われれば否定できない。それでも、助けたかったのだ。



    ■    ■    ■



 結局、私はホテルまで戻ってきてしまった。何もする事が無かったのだ。

「戻ったか。随分と堪能していたな」

 ……そして、部屋には既にアノンがいた。

「アノンは何か収穫はあったの?」

「ああ。不老の男について、詳細を理解した。それよりもアディ、私からすれば、君のほうこそ何か言う事があるように思えるが?」

 アノンに言われ、私は先程街で出会った謎の人物を思い出した。

「フィリスって人、アノンは知ってる?」

 アノンにその名前を告げると、アノンの表情が一変した。

「……そうか、フィリスに会ったか」

 アノンもフィリスの事は知っているようだった。

「なんだか、アノンに会いたくなかったみたいなんだけど……」

「だろうな。フィリスからすれば私は天敵だ。それで、何と言っていた」

「席がどうとか……。あ、この世界は元第十二席が持ってる、って言ってたよ」

「それは私も観測した。向こうは私に気付いていないようだったが」


「フィリスさんって、知り合い?」

「旧友だった。……今はもうただの他人だ」

 旧友という過去を表す言葉に、敢えて過去形を乗せた。アノンの言う事なので言葉の間違いという訳ではなさそうだ。

「今は仲が悪いの?」

「悪いのは仲ではなく相性だな。今のフィリスは、私と目が合うだけで消滅してしまう。お互いに、干渉しないようにしているだけだ」

「フィリスさんも、世界の外側の事を知ってるんだよね。私たちの目的も」

「ああ。かつて彼女は私よりも上の立場にいたが、……もう過去の話だ。あれはただ世界に属する傀儡に成り下がった。フィリスに関する話はおしまいにしよう」

 アノンはフィリスの話題を意図的に避けているようだった。仕方なく、私は別の話をする。

「これからどうするの? フィリスさんが言ってた人に会いに行く?」

「それも後でするが、先に不老の男だ。彼と元第十二席とは接点がある」

「うん、わかった。出発しよう」


 私たちは不老の男を探しに、部屋を出た。

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