第23話


「ヤヤ子、ここで良かったの?」


 ベッドに腰かけて千尋に言う。


「うん、まあここしかないって言うかさ」


 私が選んだのは千尋の部屋だった。


「何か飲む?」

「あー、じゃあお願いしてもいい?」

「りょ。いつもと同じカフェオレでいい?」

「ありがとう」


 飲み物を用意する千尋の背中を見続ける。


 友達もダメ。恋人もダメ。


 ならあとはセフレしかない。


 醜くて、浅ましくて、本当に嫌になるけれど、それでも私は千尋と一緒にいたい。


 友達のように気兼ねなく笑い合える。

 恋人のように甘い空気に胸を焦がされる。

 セフレのように快感を求め合うがままに体を重ねられる。


 そんな関係の千尋が私には嗜好品だと思っていた。


 でも、「ヤヤ子が元気ないのを、この俺がわからいでか」と向けられた爽やかな笑みに気づかされた。


 その時覚えた、友達としての心の近さが、胸が窮屈になる甘さが、求めてしまう切なさが、千尋は嗜好品なんかじゃない、と、私にとっての必需品なのだと強く訴えかけてきた。


 だから千尋を手放せない。


 友達のように気兼ねなく笑えるのが、抱く前の僅かな時間だけでもいい。恋人のような甘い空気はことの最中に僅かでも感じられればいい。偶にでも、快感を求め合うがままに体を重ねられればいい。


 セフレでいいから、千尋と決して離れたくない。


「ほい。出来たよ」

「ありがとう」


 マグカップを受け取って唇をつける。優しい甘さなのに、火傷しそうで刺々しい。


 胃の中に流れ込んだ熱が冷めると、私はカップをテーブルの上に置き、正面に座る千尋に話しかけた。


「あのさ、千尋」

「何?」

「前にさ、私と千尋が皆の間で付き合ってるみたいになってるってこと、話したの覚えてる?」

「覚えてるけど。たしか、好きな人が出来たら今の関係をやめないと、って話だったよね?」

「そうそ」

「もしかしてヤヤ子、好きな人できた?」


 千尋の顔が曇った。嫌だと思ってくれてる、嬉しい。だけどそういうわけじゃないので、首を振る。


「違うよ。でもさ、きっとすぐにさ、好きな人ができると思う」


 今はそうじゃないかもしれないけど、千尋はたしかに涼葉を大切に思っていると言った。涼葉に想いを寄せられているのだ、好きになるのはきっとすぐ。


「でさ、好きな人が出来たらさ、今の関係をやめないといけないわけだよね?」

「まあそれはそうだと思う。ヤヤ子は勿論、こんなにベタベタしてちゃあ彼氏にも悪いし。それに前に言った通り、ヤヤ子のことが好きで仕方ないってやつが出てきたら、身を引かなきゃなぁ、とも思ってるし……ヤヤ子?」


 千尋が心配げに見てきたけど、構わず口を開く。


「でもさ、私はやめたくないんだよ、千尋と一緒にいたいんだよ。そうするためには、いるためには、私たちの関係に名前が欲しいんだよ」

「……どうしてか聞かせて?」

「友達でなければ、親しい女が近くにいることは許されない。恋人でなければ、身を引かざるを得ない。セフレでなければ、隠してまで近くにおいてはもらえない。今の名前のない関係のままじゃ、私が千尋の側にいることは許されない」


 だからさ、と続ける。


「これからは、私をセフレとして近くに置いてくれないかな?」


 千尋は真剣な顔で俯く。しばらく重い沈黙が続いたのち、千尋の硬く結ばれた唇が開いた。


「ヤヤ子が真剣に言ってるのはわかったし、色々と考えてセフレになりたいって結論を出したのも感じた」

「じゃあ……」

「でもそれは出来ない」


 ふっと力が抜けていく。手足の体の感覚が失われていく。急激に冷めていくのに、冷静さは抜け落ちていく。


「お願いだから、セフレにしてよ」

「ごめん、出来ない」

「私、邪魔しないから。セフレでいさせてくれたらそれ以外何も望まないから」

「ごめん、出来ない」

「これからは生でシていいから。ねえ、今から生でシよ。だからセフレでいさせて?」

「もっと出来ない。あのさ、ヤヤ子聞いてくれる?」


 返事しないうちに千尋は話し出した。


「俺が中学三年のころに、父親が再婚したのは知ってる?」


 僅かに残った理性で、千尋の話に耳を傾ける。


「知ってるけど……」

「父が再婚して、新しいお母さんが家に来て、新しいお母さんは俺のことを邪魔に思った」


 そのことは浅くしか知らない。それは、千尋が触れられたくなさそうにしていて、私は何も聞かなかったからだ。


 でもそれが、何だって言うのだろう。


「そうしたら、新しい母につられて、父も俺への愛情は冷めてさ、会話はなくなり、ご飯も別。家事やら何やらも自分のことは自分でするようになった」

「そうなんだ」

「俺にとってそれは、すごく辛い時期だった。でも、ヤヤ子がいたから耐えられた」

「私が?」

「辛かった当時、純粋に仲良くしてくれていたヤヤ子を、ヤヤ子がいるから俺は孤独じゃない、と勝手に心の支えにしていたんだよ」


 千尋は「だからさ」と続ける。


「俺はヤヤ子に引け目もあるし、大きな恩も感じてる。恩人と言ってもいいヤヤ子を大切にしたいし、離れたくないって言うなら、俺は他を捨ててでもヤヤ子を選ぶ」


 その言葉は私に都合のいいものだった。


 千尋が私を選んでくれるのなら、友達にも、恋人にも、セフレにもならなくていい。


 だけど、無性に腹が立った。


 互いに求め合っているという一緒にいる理由が、今までの関係が汚される気がしたから。


 そして、千尋の幸せに私が重荷になっているという事実を突きつけられたからだ。


「何それ? 恩があるから? 引け目があるから? 私を選ぶってこと?」


 頬がひくつく。頭にかっと血が上る。


「私は千尋に恩を売ったつもりも何もないから! 情けかけんな! 馬鹿! アホ! 面倒くさい女で悪かったな!! 私も恋して千尋なんか忘れてやるから勝手に幸せになっとけ!!! 馬鹿! アホ!」


 私は言いたいことだけ言って、千尋の部屋から飛び出した。

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