第44話 彼女がここに来た理由
「イリス姫」
俺は声をかけた。まだあうあう言っていた姫だが、俺の表情に気づいたのか身なりを整え立ち上がる。自分の頬を叩いていた。
「なにかあったのですか、ラクターさん」
「少し前、姫の手紙に賢者アリアの話が書いてあったよな。賢者の位を返上し、王都を出たと」
姫はうなずく。表情が曇っていた。心優しい彼女のことだ。心のどこかで、ずっとアリアのことを心配していたのだろう。
俺は思い出す。最後に見た、アリアの覇気のない姿――。
「さっきリーニャが教えてくれた。どうやらアリアがこの森に来ているみたいなんだ。それも、俺たちがいた王樹周辺まで近づいている」
「えっ!? アリアさんが!?」
「あいつとはいろいろあった。無視するわけにはいかない。俺はこれから様子を見てくるから、イリス姫は――」
「私もいきます」
凜とした口調だった。王樹に初めて訪れたときの気品が、再びそこにあった。
リーニャにはもうしばらく周囲を監視してから戻るように伝える。そして俺は姫とともに神鳥の背に乗ると、大空へと飛び立った。
行きよりもスピードを上げて、神鳥は一直線に王樹へと向かう。
「……見えた」
しばらくして、見慣れた巨大樹施設と広場が眼下に近づいてきた。
騎士や文官、そして動物たちが集まっているのがわかる。
神鳥が大きく羽ばたき、広場に降り立つ。一声鳴いて、皆の注目を集めた。まるで『王のお帰りだ』と告げているようで、まあまあ落ち着かない。
「なにがあった、皆」
集まる視線への居心地悪さを抑え込み、俺はたずねた。イリス姫とともに人だかりに向かうと、騎士や文官たちが道を空けてくれた。
広場の縁に沿って生えた一本の木。その根元に、少女が横たわっていた。
「アリアさん!」
イリス姫が駆け出す。俺も後を追った。
ぐったりと倒れたままの少女――元賢者アリアを抱き起こし、声をかけ続けるイリス姫。だがアリアは目を閉じたまま反応しない。
――この姿を見て、いったい何人が賢者アリアだと気づくだろうな。
昔のようにひらひらとした魔法使いのローブ姿ではない。動きやすさを重視した、頑丈でファッション性皆無の上下。いずれもところどころほつれ、土埃だらけになっている。
同じく汚れた手足、頬。その汚れの下には、どす黒く不気味な黒い染みが広がる。
最後に見たあのときより、心なしかやつれていた。
「ほんの数分前です。この方がふらりと現れて、この場所で祈るような仕草を。自分たちが駆けつけたときにはすでに倒れた後でした」
キリオが報告してくる。彼らもまた、到着したばかりだったようだ。
『この方』――という呼び方に、俺は虚しさを覚え、一度、目を閉じた。
「ルウ」
俺は大神木の精霊を呼んだ。すぐにその場に姿を現す。
「彼女を
「かしこまりました~」
イリス姫の対面に座り、手をかざす大精霊。姫は布でアリアの顔に付いた汚れを拭っている。
俺は双子姉弟を振り返った。
「まだ施設の部屋は空いていたな。ベッドの用意をしておいてくれ。スティア、彼女の着替えを頼む。キリオ、医官がいるなら待機させろ。それと、湯を沸かしておいて」
「承りました」
ふたりが敬礼し、踵を返す。いかにトンデモ姉弟でも、わきまえるところはわきまえるらしい。
ルウが言った。
「特に大きな外傷はなさそうです~。とてもお疲れのようですね~」
「わかった。ご苦労様。ベッドに運ぼう。――姫、ここは俺が」
アリアを背負い、俺は滞在施設へと向かった。
――それからしばらくして、アリアが目覚めたと医官から報告を受け、俺たちは彼女が休んでいる部屋へに集まった。
「具合はどうだ。アリア」
「ラクター……うん。もう大丈夫。ありがと」
ベッドに横になったまま、アリアは言った。まさか彼女の口から礼が聞けるなんて、以前ならば想像もできなかっただろう。
まだ疲労が色濃く残っているのか、口調に活力はない。だが、口元にわずかな笑みを浮かべるほどの余裕は取り戻したようだ。
心なしか、表情も明るくなっている。憑き物が落ちたような感じだ。
だからこそ――アリアの身体を蝕む黒い染みがより痛々しく映った。
イリス姫がベッドの横に座り、アリアの手を両手で握る。
「心配したんですよ……」
「姫様……ごめんね」
「もう謝らないでくださいな」
涙ぐむイリス姫。アリアは上半身を起こし、姫の手に自分の手のひらを重ねた。
彼女らから少し離れた場所に立った俺は、キリオから耳打ちを受けた。
「陛下。あの方……アリア様のお身体について、以前、姫様のご指示で調査を行ったのですが、どうやら聖女エリス様のお力が関係しているようです。まだ表には出ていない話ですが」
「十中八九、そうだろうな」
あいつが聖女らしからぬ
おそらく俺との戦いで力を使い果たし、呪いを抑えることができなかったのだろう。
だが……アリアほどの人間が、呪いをそのままにして、ひとりでここに来た理由がわからない。
俺はあらかじめ頼んでおいた温かいお茶を、アリアに差し出した。カップ半分ほど飲み終わるまで待って、話を切り出す。
「アリア。お前はどうして、カリファ大森林にやってきたんだ。ひとりで、そんなボロボロになってまで。お前にとってこの場所でのことは、決していい思い出じゃないはずだろ」
するとアリアはカップを持つ手を下ろした。
窓の外を見る。
陽光降り注ぐ穏やかな広場と、雄々しい王樹が見える。窓枠には小動物たちが「なんだ、なんだ」と様子を見に来ていた。
アリアの視線は、どうやら広場の奥――かつて自分の帽子を埋めた場所に向けられているようだった。
「お墓参り……」
ぽつりとつぶやく。
「あそこに埋めた帽子。あれ、私にとって『今までの自分』みたいな感じでさ。ちゃんと生まれ変わらなきゃって。私さ、肩書きも財産も力もぜんぶ失って、なんにもなくなったけど……。この場所にひとりで来ることができたなら……もう一度、やり直せるかも、自信を持てるかもって思ったんだ」
振り返る。少し肉が落ちた手で、彼女は頬をかいた。
「ようやく、吹っ切れたよ。だから今は、すごく気持ちが穏やかなんだ」
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