(八)兄と弟
白布で顔をおおったぬいの亡骸に、直介は深々と最敬礼をしたあと、手をあわせて瞑目した。
それから静かに向きなおり、うつむく藤太に語りかけた。
「もしもぬいがいなければ、当家の命運は昨日でとだえていたように思います。父も私も、陪臣たちも、ぬいのおかげで命びろいをしました」
「でも父上は……」
「どうかお気になされますな。私たちの父とはああしたお方なのです。昔から」
「そうなのか。俺は知らなかった。なにも」
「無理もございません。それにしても、ここのなかはこうなっていたのですね」
質素なつくりをした離れのなかを、直介が感慨ぶかげに見わたす。
表面が擦りきれ補修跡だらけになった床板に見いりながら、しきりに小さくうなずいた。
「兄上、ひとつおたずねをしてもよろしいですか?」
「うん」
「恐ろしくは、なかったのですか?」
「なにが?」
「その……人を斬ることです。本身を抜いて斬りあうとは、なみなみならぬこと。迷いや恐れといったものはなかったのですか?」
「恐れ……か」
いわれてはじめて気がついた。
そういえば三人の命を斬ってしまったのだと思いだした。
あらためて振り返ってみるに、ぬいを助けたい一心でためらいはなかった。ただそれしかなかった。
藤太が首を横に振ってこたえると、直介は目をみはって息をのんだ。
「それはすごい。やはり兄上には天与の才がおありだ。ひきかえ私は駄目です。まったく駄目でした。もともと武芸が苦手というのもありますが、武家の子としての覚悟がたりない。だから情けなくおびえるばかりで体が動かなくなり、目のまえで父上が斬りつけられたというのに刀を抜けなかった。あの場では私が足でまといとなったがゆえ、供の者らは存分に働くこともかなわず劣勢におちいりました」
ぬいのほうを見て目をほそめる。
「そこでぬいです。どこからともなく割ってはいり私の刀をとりあげると、またたくまに三人を斬りすてました。それから形勢一転、父と私は退路をえてのがれました。そしてさらに兄上です。疾風迅雷とはまさにあのこと、まるで稲妻がほとばしりゆくような後ろ姿でした。父と私が生きながらえたのは、まぎれもなくぬいと兄上のおかげ。このとおり、心より感謝もうしあげます」
まえに伏せた一髪のみだれもない頭を、藤太はうつろな気持ちで目にうつした。
「初太……いや直介。俺もひとつききたい」
「はい、なんなりと」
「どうしてあんなことになった?」
「それは……話せば長くもなりますが、私が知りうるところをお伝えします――」
直介は慎重に言葉をえらびながら、藤太にもわかるよう丁寧に解き明かしてくれた。
曰く、とどのつまり外からおしよせる大波動と、家中のさざ波が干渉した政争である。
郡奉行から勘定奉行に出世した左門は、いまや執政の実務をになう奉行衆のなかでも要のひとりとして目されるようになっていた。
かつての塾の学友であり、国学者で砲術兵学家の
それは国学や皇朝学が説くところの神州日本の心を尊び、西洋と交易して洋学のすすんだ技術と知識をとりいれ、国を富ませ兵を強くしようというスローガンである。
江戸と京の事情をよく知る藩主
諸藩を見わたせばけしてめずらしい話でもない。むしろ出遅れたほうでもある。幕府講武所では十年もまえから西洋砲術をとりいれているし、さきだって開港した横浜と箱館と長崎は、わずか五年で見ちがえるほど発展してもいる。
がしかし、藩のなかで洋式の練兵と財政改革が具体的にすすむにつれ、ながらく重用されてきた兵法家や武芸教授方が不満をいだくようになった。
やがてそれらがかたまりとなり、尊王攘夷の総本山である
いっぽうで今年の元治元年二月のこと。
久保田藩は幕府から京師警備の派兵をもとめられた。
これはつくづく手痛い出費だった。勘定奉行である左門は、兵糧と軍資の調達に奔走したが、なけなしの資金を捻出するため藩士の禄にもしわ寄せがおよんだ。
ますます家中の不満が濃くなりゆく。
「諸君、これはいったいどうしたことか。かしこくも天朝様から大政を託されたのが武家であるならば、攘夷実行を奉じてこそであろう。にもかかわらず幕府は、その
「しかり!」
「それもこれも国難を好機とばかりに君公の耳目をふさぎ、私利私欲をむさぼる不義不忠の輩が跳梁跋扈しているからではないか。断固としてあってはならないことだ!
「いかにも。おのれ君側の奸臣、白津地左門。奴こそ天誅をうけるべきである! 我らの尽忠報国の赤心を世にしめそうではないか!?」
因果があべこべになった逆恨みにすぎないのであるが、軽き身分から出世して辣腕をふるう左門へ、とくに怨念の矛先がむけられた。
さらに彼らはとどまることを知らず、水戸藩の
そうなったらたいへんだ。条約破棄となって異国の信用をうしない、戦争の口実をあたえてしまう。義堯公も責めをまぬがれない。
うごきを察知した左門ら奉行衆は、一派の首魁たちを捕縛して切腹させ、事件を未然に封じた。
それにたいする残党の報復が昨日の一件だったという。
話がむずかしくて藤太には半分ぐらいしか理解できなかったが、だいじな道理はなんとなくわかる。
「家臣たちで仲間われしたら君公がこまるだろうに」
「いえ、まさしく、そのとおりなのです。現実を見ずに正義をならべるだけなら書生にもできます。南蛮国(ポルトガル、スペイン)の衰退、
「いや、さっきから直介がなにを言っているのか俺にはよくわからないが……」
直介がまっすぐ膝をよせ、藤太の両手をひしとにぎった。
目には涙が浮いている。
「ですから兄上はご立派なことをなされました。めぐりめぐって家中を危難から救われたのです。私は弟としてとても誇らしく思います」
「そう、かな」
「ああ兄上! 兄上、兄上、兄上!」
「ど、どうした……?」
「私は兄上とこうして語らいたかった。幼少のころ父やぬい、誰にたずねても兄上のことを教えてはくれませんでした。そろってこの離れには近寄るなと言う。そんなおかしな話がありますか? 私はずっとさびしかった、もっと早くお会いしたかった! どうしてもっと早くでてきてくださらなかったのですか!? どうして私と遊んでくださらなかったのですか!? もしや家督をかすめとった私を憎んでおられたからですか!? ならば要りませぬ、家督など要りませぬ。私はよその兄弟がうらやましくて仕方がなかった。剣術を一緒にやりたかった、相撲もとってみたかった。明徳館へともに通い、兄上から色々と教わりたかった! それをどうして、どうして……」
まさかあの初太が、そのような思いで離れを見ていたとは考えてもみなかった。
「それは俺が臆病だったからだ。お前をうらんだことなどない、ないから」
わんわんと声をあげ泣きじゃくる弟の背を、藤太は大きな手でそっとさすってやるのだった。
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