(七)父のおもかげ
二十年ぶりになる。
藤太はぬいの死をつたえるため、ふるえる足で母屋へ踏みいれた。
屋敷のなかは蜂の巣をつついたような騒がしさであったが、悄然と歩む藤太の顔を見るなり、皆がうごきを止めて静かにかわった。
顔をそむけ、横目づかいにそそがれる数多の視線は、針のむしろで身を巻かれる心地がした。
でも、今日だけは行かねばならないと下唇をきつくかむ。命をかけ白津地家につくしてくれたぬいの
幼少のおぼろげな記憶をたぐりよせ、中庭に面した長廊下をわたり、左門がいるであろう部屋までたどりついた。
障子戸のまえに侍していた壮年の使用人たちが、膝行で道をゆずり平伏した。
ぬいが教えてくれた作法どおり、藤太は袴を巻いて座すと、背筋をのばしおとないをいれた。
「父上、藤太です。よろしいでしょうか」
まっ白な障子戸のむこうがわで誰かが息をのむ気配と、衣ずれの音がいくつかした。
あちらの襖から退出した者がある。小刻みな女の足音であったから継妻であろうか。とどまった人の気配がふたつある。
ややあって、音もなく障子戸が開いた。
あらわれたのは、見知らぬ若武者の色白の顔だった。
月代をきれいに剃りあげ、細身で端正な顔だちをしている。年のころは二十歳前後とおぼしく鼻筋がまっすぐかよい、すずやかな目をした立派な若者だ。
彼は藤太の奇怪な顔をまえにしても、眉根をくもらすそぶりもなく、むしろ近しげに微笑みかけてきたので藤太のほうが戸惑った。
「兄上、わかりませんか? 私です、弟の初太ですよ」
「あ、初太か……」
初太をみたのはこれが十年ぶり、二度目になる。言葉をかわしたのははじめてだ。
「いまは元服して
「そうかな、どうだろう……自分ではよくわからないが」
どう反応したらよいものか藤太がこまっていたところへ、部屋のなかからぞんざいな声がした。
「いつまでそこにいる、さっさと入れ」
解せないようすで直介が小首をかしげ、障子戸をさらにひらき藤太をまねいてくれた。
おそるおそる入室したところ、上座にしかれた布団のうえに座す左門の姿があった。
腿に包帯をまいた左脚をなげだしている。顔色はわるくない。下女の言どおり刀傷が浅かったから、ぬいのような出血多量にはならずにすんだのだろう。
ならばやはり、さきに離れへ医者をよこしてほしかった。内心で悔しく思う気持ちがよぎりはしたが、まずは父の無事に安堵した。
二十年ぶりの対面である。
何から、どのように話すべきか藤太は迷った。
つぎからつぎへ思いがめぐっては消えゆく。
どれもこれも言葉にならず視線を垂れたままの藤太であったが、対して左門が浴びせかけた声音は冷淡だった。
「なぜ出てきた」
「え……」
藤太が見あげたさきにあった左門の双眸は、忌々しげに遠ざけようとする色あいをあきらかにおびていた。
「しかもいったいどういう了見だ。儂の承諾もなく下手人どもをことごとく斬りすてるとは。あのまま閉門しておけば、無駄な血をながさずとも済んだのだ」
「無駄な、血……」
「だのに不遜にも独断して斬ったな。二十年まえにほうそうにかかって病没し、当家にいないはずのお前がだ。さいわい近隣にお前を目撃した者はなかったが、ともすれば儂は藩に虚偽をとどけでた咎でせめられ、腹を詰めねばならぬところであったのだぞ」
ぐらりと眩暈をおぼえ、身の置き場が溶けてゆく心地だった。
左門の言葉にはねぎらいはおろか、藤太にたいする父親の情と呼べるものがまったくなかった。
「あるいはここぞとばかり、おのれを蔵牢に幽閉してきた儂の面目をつぶさんとする腹づもりであったか?」
「蔵牢……」
直介が膝をすすめ何かを言わんとしたが、おまえは黙っていろと左門が手で機先を制した。
「――いいや待てよ、儂を守れなかった直介は不行き届きで廃嫡にされたはずだ。なるほど、さすればお前にとっては一挙両得、蔵牢から脱出し家督を横領せんとする目論見であったのだろう。ちがうか?」
「いえ、私は……」
あなたの身を案じ、ぬいを救いたい一念からでた行動だったのだと言いたかったが、左門のするどくはやい詰問口調がそれをかきけした。
「よいか、よく聞け。昨日の一件は、すべて白津地家の
やはり、そうだったのか――
やっと藤太は合点がゆき、体じゅうの力がぬけて肩をおとした。
ぬいはやさしい嘘をつき、藤太の自尊心が傷つかぬようまもってきてくれたのだ。
ずっと左門のことを子思いのやさしい父だとばかり思っていたが、それは勘違いだった。
いや正しくは、もの心がつくようになってからうすうす気づいてはいたが、都合よく思いこんできただけだったのだろう。
よくよく思えば、三歳までのできごとなど憶えているはずがない。あいまいな記憶のなかにあったやさしげな父のおもかげは、さみしい心をまぎらわすため、そうであってほしいと思う願望がつくりだした幻影だ。
いったい何を期待してここへ来てしまったのか。
父から武家の男子として認めてもらえるかもしれない、成長をよろこんでもらえるかもしれないなどと、淡い期待をいだきノコノコやってきた己がいまは恥ずかしい。
だいたいにしてこの左門という人は、生まれそこなった子をながらく蔵牢にとじこめておけるような人である。何かが欠落した人物だと疑ってかかるべきだった。
いいや。
疑うことが恐ろしくて自分で自分をだましてきたのは、ほかでもなく己自身だったのだろう。
左門がいらだちまじりに声をあらげた。
「なにをしている。まだなにか用か?」
「ぬいが……死にました」
「それはさっき別の者から聞いた。女だてらにでしゃばるからそうなるのだ。そもそもあのぬいという者は、お前の世話をするというから置いてやってきただけのこと。にもかかわらず儂の目をぬすみ、お前に武芸をさずけていたとは心得ちがいもはなはだしい。もしも生きていたら即刻おいだしていたところだ」
「…………」
それは違う、と言いかえす気力もわいてこなかった。
なにかを言ってみたところできっと無駄だ。
この人は藤太を子とも人とも思わず、厄介者とみなしているのだから。
命の恩人であるぬいのことを疎ましく思い、惜別の言葉すら口にしようともしない。
ぬいが守ってくれたあたたかな離れの外にあったのは、そうした殺伐とした世界だったのだ。
もう話すことは、ない。
首だけで一礼して出て行こうとした藤太の背に、さらに左門が追いうちをかけた。
「そうだ、お前は知らぬであろうからこのさい教えてやろう。先妻の
「そうでしたか……」
「家の疫病神め、金輪際二度と蔵牢から出ようなどと思うな。そう心得よ。下がれ」
直介はすがるように左門の横顔をみつめたが、思いなおして言葉を飲みこむと、おぼつかない足どりで長廊下を去ってゆく藤太を追った。
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