(五)雷光一閃

 十年の稽古をかさねた藤太の体躯は、剣士と呼ぶにふさわしい変貌をとげていた。

 背丈は六尺(一八〇センチ)、体重は二十貫(七五キロ)をゆうに超え、背なかの筋骨が岩のようにもりあがる。

 しかしながら顔は、やはり以前のままだ。骨格が男らしく大きくなるにつれ、よけいに崩れてしまった。あれから鏡をのぞいたことはない。

 学問はやや苦手である。

 せっかくぬいが苦心して取り寄せてくれた書物の数々も、パラパラとななめ読みをしただけで積んでおくのがせいぜいだった。

 ぬいは五十路の坂にさしかかり白髪が増えた。若いころにやった剣術稽古の無理がたたって寒い日には膝がひどく痛んでびっこをひきずったりしている。

 はげしい組太刀の稽古はやれなくなったが、あいかわらずしゃんとして眼光は厳しい。藤太の稽古を側から見守ってこまかなところを指摘してくれる。

 だが武家屋敷の女中としては、そろそろいとまを考えなければならない時期だ。


「そうですね、もしもそうなったら、藤太さまと津々浦々を見てめぐりたいものです。旅先で行き倒れになってもかまいません。そのときは骨を海にまいてやってください。それがぬいの望みです」


 などと、あっけらかんと言ってくれる。

 きまって藤太は涙目になって首を横にふる。


「いいや、それでは困る! 俺にとってぬいは家族も同然。剣術の師でもある。まだまだ俺は未熟者なのだから、百まで長生きをしてもらわないと」


 十三歳の脱走から外へでたことはない。

 藤太が二十二歳になったとき、ぬいは施錠をせずに出入りするようになったけれど、外へ出たいとは一毛も思わなかったし、あたらしく増えた使用人たちや従者と顔をあわせたくなかった。

 もちろんぬい以外に離れをたずねてくる者はいない。

 あれから外の世界は、変転めまぐるしいようだ。

 元号がわずか十年あまりで安政あんせいから万延まんえん文久ぶんきゅう元治げんじとうつろった事実が示すとおり、大火と疫病、天災と人災の厄災つづきだ。

 まず日本近海で黒船が目撃されるようになった安政のころに大地震と大津波があった。

 あとにして思えばあのあたりから騒がしさが増したのかもしれない。日本列島全体が荒廃したというのに、どの藩にも海防と復興を両立できるほどの財源がなかった。

 何年か幕政の混乱がつづいたのち、桜田事変さくらだじへんがあって幕府の大老が討たれた。

 それを境にますます世が不穏な空気に染まり、食いつめ浪人や不逞の輩が京にあつまるようになった。強盗や天誅てんちゅうさわぎも横行する。

 いっぽう西国では異国とのいくさがおこり、異国の軍兵に上陸されたという。

 長い海岸線をもつ久保田藩にとって遠い他人ごとではない。戦に巻きこまれるのをおそれた北前船の往来が減って、入ってくる物品の値段が急騰しているのもこまった問題だった。

 藩の財政がひっぱくすると、領民がしわよせをこうむる。市中に不満が濃くたまり、うちこわしや一揆騒動もいくつかあった。

 そのたび父の左門は領内を東奔西走、ときに藩の使者として京まで西上することもあった。


尊王攘夷そんのうじょうい!」


 最近になって藩士たちがよく口にする言葉だ。

 その意味するところは、君主を尊び夷狄いてきはらえ。

 すなわち天皇に忠誠をつくし武力をもって異国を討て、それこそが天皇から大政を委ねられた武家の使命である、というスローガンである。

 国学者の平田篤胤ひらたあつたねを輩出した久保田藩は、国学こくがく皇朝学こうちょうがくが盛んな家風ゆえ上から下まで熱病であてられたようになったが、些細な口論を発端として刃傷さわぎが起こるようになったのは悩ましいかぎりだった。

 得体のしれぬ不安と怒りにとらわれ、そのはけ口と心の着地点をもとめて皆が殺気だっている。

 そうした世相だった。

 だけれども藤太にとって、外のことなどどこ吹く風。

 おとぎばなしを小難しくしたような国学なんて、さっぱり興味が向かなかったし、異国がどこにあるのかも知らない。関心すらない。

 一に剣術、二に剣術。

 とにかく目のまえに振るう一刀だけに集中する。

 頭のてっぺんからつまさきまで剣術一色の十年をすごしてきた。

 が、いよいよ転機がおとずれた。

 それは元治元年三月初旬のこと。

 土手にふきのとうがめぶき山桜が開きはじめた早春、寒のもどりで冷たいもやが濃くおりた朝だった。

 朝餉をおえてからひとり稽古で汗をながす藤太の耳に、使用人たちの声が高窓から遠くもれ聴こえてきた。


「たいへんじゃ……左門さまが、左門さまが……」

「であえであえ」


 藤太の離れは屋敷のなかでも奥まったところにあるので、表門側のくわしいことはよくわからない。

 だがただならぬ雰囲気である。父が登城する朝は屋敷内がきまって慌しいものだが、どうもようすがちがった。

 なにごとだろうかと額の汗をぬぐいながら、二重の蔵扉を一寸だけあけて外をうかがってみた。こんどは明瞭に言葉を聞きとることができた。


「やられた! ご行列が賊にやられた!」

「出合え出合え、左門さまをお守りするのだ!」


 いましがた城へ向かったばかりの行列が、賊に襲撃されたというではないか。


「なんと、父上がおそわれた? どういうことだ……」


 どうする。

 出るべきか、出ないべきか。

 藤太がためらっていたところへ、半狂乱になった女の声がきこえた。


「ああ、ぬいどのが、ぬいどのが囲まれております! 誰か、誰か!」

「なに!?」


 もう迷ってなどいられない。

 刀置きによこたわる鬼王丸の鞘をつかむと、扉に体当たりして外へ飛びだしていた。

 剣術で鍛えた藤太の脚力は、屈強俊敏、一歩が飛ぶように大きい。あっというまに馳せて表門へまわった。

 下女たちがよりあつまり外の様子を見ている。


「のけのけ! ぬいはどこだ」


 藤太の顔をみて腰を抜かした者もあったが、いまは気にしていられない。

 土煙を引いて門外へとびだすと、従者に守られ馬上でぐったりとしている左門とすれちがった。どこかを斬られたらしい。

 それよりもぬいだ。前方に目をほそめる。

 靄がかかって定かではないが、半丁向こうで剣の交わる音と、男たちの怒声がした。


「あれだ!」


 途中、すれちがった誰かが、


「兄上!」


 と声をあげたが、藤太は気づかなかった。

 まっしぐらに駆けぬけたさきで、刀をふるって孤軍奮闘するぬいの姿がうっすらとうかびあがった。

 まわりに四五人が倒れてある。

 斬りあっている敵は三人。

 ぬいは何箇所か斬られ血を流しながらも、懸命に抵抗している。

 藤太の血が一気に沸騰した。


「おのれ賊ども、卑怯なり!」


 雷鳴のごとき大音声と疾風のごとき跳躍で、あたりの靄がぱっとまるく吹きとんだ。

 そのとき襲撃犯の三人がそろって目撃したものは、急にあらわれたバケモノの顔と、ひとすじにほとばしる雷光だった。

 つぎに奇妙なことがおきた。


「あれ……?」


 ふと気がつくと、なぜだか武家屋敷街の甍が眼下にある。きれいに手入れされた庭木と、青く澄んだ天をぐるりと広く見わたせた。

 どうやら己は飛んでいるらしい。そう覚った刹那、あとは真っ逆さまに地へおちた。

 はげしく叩きつけられ、鞠のように何度かはずむ。

 めまぐるしく視界がめぐったすえ、首を失った胴にひっかかって止まった。

 まもなく世界は色と音をうしない、真っ暗になった。

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