(四)邂逅と立志

 幾日か過ぎた。

 また外に出てみようなどという欲求は、まったくやってこなかったが、かわりに別な思いがせつせつと胸を焦がすようになった。

 脱走した日、父と初太が仲睦まじくやっていた打ちこみの光景だけが、どうしても拭えない。

 とうとう我慢ができなくなってきてぬいに打ち明けた。


「剣術というものを、やってみたい……のだけど」


 ぬいは裁縫をしていた手をピタリと止めると、かなり長いあいだ藤太の眼をみつめていた。

 やがておもむろに立ちあがり、施錠の音だけを残して去っていった。


「どうやら悪いことを言ってしまった、のかな」


 四半刻ほどがたち、ふたたびガチャリと開錠の音がしてぬいがもどってきた。


「ぬい、その格好は……?」


 出て行ったときと違う装いだった。黒のたっつけ袴をはき、着物を白襷できつく縛ってある。

 小脇に太い青竹を三本かかえ、腰には打ち刀をさしていた。

 唐突な変貌に驚いた藤太は、言葉を失った。声をかけられなかった。

 まるで見えない鎧でも身につけているような、いつもとちがった侵しがたい空気をまとっていたからである。

 ぬいは無言のまま、畳の上に青竹を立てた。すべてを正三角にならべ終えると、その中央に座した。


「藤太さま。刮目なされませ。まばたきをなされますな」

「え……う、うん」


 胡坐をかいていた脚をたたみ、正座で威儀をただした。そうしないわけにはゆかない厳とした気迫が、今のぬいにはあった。

 仏像のような半眼をしたぬいが、物音もたてず、すべるように片膝を立てる。

 左手で鞘を引き寄せ、右手指をやわらかく使って柄にそえ、鯉口をきった。

 それは一瞬のできごとだった。

 まえぶれもなく、ぬいの身がふわりと宙に浮いたのである。

 そして独楽こまのように一回転、つぎつぎと青竹の首が飛んだ。

 物音もなく猫足で着地したかとおもえば、またしてもふわりと舞い上がる。こんどは逆回転をして青竹の胴を断った。

 畳に置いただけの青竹が、微動だにせず立ったままでいる。

 元の姿勢にかえったぬいが、ゆっくりと静かに納刀を終えた。

 藤太は、まばたきはおろか息さえ忘れていたが、屹とした姿勢から発せられたぬいの低い声音に呼びもどされた。


「――ただいま披露した太刀筋は、雷風一刀流らいふういっとうりゅうの秘技、雷風剣にござります」

「らいふう……けん」

「動くこと青天を裂く雷光のごとく、はやきこと竹林をなぐ疾風のごとし。雷をあやつる建御雷神たけみかづちのかみ様と、風をつかさどる志那都比古神しなつひこのかみ様の御神力ごしんりきの忠良なる従者となりて、抜すなわち斬。国産くにうみよりつづく天地のことわりに則り、神州の守護者として身命をささげ賊を断つ」

「…………」

「これが武家の剣術というもの。けして酔狂で棒きれや竹刀を振りまわすだけの遊びではござりません。また武家の腰にさしたる二刀は、生れながらに与えられた一つの特権をあらわし、虚栄やお飾りではござりません。なればこそ学者がくしゃは、正真廉潔の心と覚悟なくして刀を抜けませぬ、斬れませぬ、剣の奥院おくのいんまでいたれませぬ。さながらそれは険しきいばらが茂る幽谷ゆうこく深山みやまを素手でかきわけ、ひとすじの道をきりひらくようなもの。誰もが歩める道ではござりませぬ。それでもなお藤太さまは、真心より剣術を学びたいとお思いですか? 道に踏みいれる覚悟はおありですか?」


 先日突きつけられた侍たちの切っ先よりもはるかに鋭いぬいの眼光と言葉が、藤太の心身をつらぬき、胸のうちにとする熱を置いてゆく。

 迷いはなかった。

 両手をついて師となる人の顔を見上げ、悦びにうちふるえながら腹底より応答した。


「俺は……いいえ私は、武家の剣術をやりたい! 雷風剣を学びたい。どうかお願いします!」


 かくして藤太の剣術修行は、白津地屋敷の一隅にある離れのなかではじまった。

 だがそもそもなぜ、ぬいは剣術ができたのか。

 側にいてくれる唯一の人であるというのに、関心が足りていなかったと藤太は反省をした。

 稽古がすすむにつれ、その理由を少しずつ明かしてくれた。

 曰く、ぬいの生家は、もとは藩の武芸教授方をつとめた家柄だったという。

 先祖は一刀流開祖伊藤一刀斎いとういっとうさいの高弟小野忠明おのただあきのもとで一刀流を修行したのち、鹿島神宮かしまじんぐうに千日参篭したすえ雷風剣を会得した。爾来、雷風一刀流を称する。

 久保田藩邸における御前仕合できわだった腕まえを披露し、佐竹十九代義宣よしのぶ公にめしかかえられた。

 時はくだり、天明年間に大飢饉があった。

 泰平の世では剣よりも土を耕すべきだと考えたぬいの祖父は、俸禄と職を返上し新田の開発と灌漑かんがいの普請に貢献した。

 家伝の雷風剣は脈々と一子相伝されてきたが、父がどうしても男子を得られなかったため、女だてらに武芸を好んだぬいが受け継いだ。

 ぬいは若いころに一度だけ婿を迎えたことがある。男子の子宝にもめぐまれた。

 ところがある日、家の火事があった。三歳になる息子を救いだそうと夫はとびこんでいったが、火炎と黒煙につつまれた屋根が崩落して二人は帰らぬ人となってしまった。

 いまは妹夫婦が実家を守っているという。

 どうしてぬいが自分の面倒を親身にみてくれたのか、はじめて藤太はその謎がとけたような気がした。また剣術を習うときだけはよき弟子であろうと心がけた。

 ぬいの稽古はきわめて厳しかった。

 はじめの一年は剣を持たせてもらえず、ひたすら百人一首の稽古をさせられた。

 耳をとぎすまし、とにかくはやく、正確にやるのだという。

 なぜこんなことをしなければならないのかと怪訝に思いはしたものの、あくまで師弟なのだからよけいな質問をしてはならない。師の導きと言葉だけを信じ、くりかえすのみ。

 二年目から木剣をもたせてもらえたが、小太刀の型稽古だけだった。手足にたくさんのまめができて、それがつぶれ、ぶ厚い皮の層をなした。

 あっという間に畳が擦りきれてしまったので、離れのなか全てを板間にかえた。冬は寒かったが稽古の楽しさが勝った。

 それが三年もつづいたのち、やっと五年目にして打ち刀の木剣をもちいた組太刀の相伝がはじまった。

 ぬいの打ちこみは容赦がなかった。いつも体には痣がたえない。

 七年目を数え、ついに本身を手にした。

 授けられたのは雷風一刀流開祖が愛用のひと振り、ぬいの家で代々受け継いできた宝刀であるという。

 それは古月山ふるがっさん、銘は鬼王丸きおうまる

 奥羽武士の魂の権化ともいえる名刀だった。

 刀身の地鉄じがねは黒く沈み、やや厚く、潤いが薫る。

 月山の特徴である綾杉肌紋あやすぎはだもんは、岩座いわくらを滑りゆく奥羽山脈の雪解け水のように清々しき気風。

 刃紋は綾杉肌に呼応して、あたかも霊魂を宿し呼吸するかのごとくたゆたう。

 手にしてみるとずしりと重く、たしかに刀身のつりあいがよい。これを振らないことには雷風剣を会得できないのだという。

 よく見れば刃こぼれを修復したあとがいくつもあった。この刀が室町の世から生きぬき、たくさんの血と魂を吸ってきた証でもある。

 藤太は時がすぎるのも忘れ、己が誰であるのかも滅却されるほど、ますます稽古に没入した。

 気づけばすでに十年が過ぎ、二十三歳になっていた。

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