(三)鏡のなかのバケモノ

 離れに戻るとぬいが、温かな湯にひたした手ぬぐいで足についた土埃を丁寧にすすいでくれた。

 緊張と興奮で忘れていたが、藤太は履物もはかずに飛び出していた。白足袋はよごれ、小石を踏んだ足裏がところどころ小さく切れている。

 膏薬を塗ってくれる指がくすぐったい。


「さきほどはびっくりなさったでしょう」

「うん」

「藤太さまがずいぶん大きくなられたので、皆がわからなかっただけですから、どうかお気になさらないでください」

「うん……」


 いつもと変わらぬ口調に運ばれ、接地感を見失っていた心がすぅと落ち着いてゆく。

 やってはならないと戒められてきたことをしたのだから、てっきりひどく叱られると覚悟をきめていたが、予想が外れたので拍子抜けもした。

 むしろぬいの横顔が、どこか愉快げにも見えるのはどうしたことだろう。まるで論語の素読をひっかからずにうまくできたときのような表情だ。


「今日はどこまで行ってきたのですか」

「お城を見てきた」

「まぁ、そうですか。いかがでした?」

「大きくて、立派な屋敷だった。くんこうという人には会えなかったけど」


 ぬいがクスリと笑う。


「それはそうです。私だってお会いしたことはないのですから。お顔だって存じあげません。今年はご出府の年でいまはお江戸においでです」

「江戸……徳川さまのお城があるところだ。なにかの役目か?」

「はい。君公はたいへんお忙しくあられるのです。先日お話ししたように異国からが来たりして、江戸はたいへんなのですから。しかも藩は徳川さまから蝦夷えぞをお守りするよう命じられたばかり。ご家中で大騒ぎしているところです。お父さまも何かとご苦心なさっておられるようです」

「へぇ、そうなのか……」


 ぬいは物知りだ。

 こうしてひとつひとつ語り聞かせてくれるので、藤太も外の世界をなんとなく想像できるようになった。

 佐竹家がおさめる久保田藩という国は、日本のなかにある。南の江戸には徳川の将軍さまがいて、さらにはるか西の京には天朝さまがおわす。

 それから京と久保田藩は、西国と蝦夷の海路を往来する北前船きたまえぶねでつながっているそうだ。

 北からおもに海産物と肥料がきて、西からは薬種や日用雑貨、茶、鉄、着物などが流れてくる。

 だから天下はながらく二百五十年も泰平、久保田藩も安泰で石高以上に豊かなのだと聞いた。表むきは二十万石の封土とされているけれど、内実は四十万石の経済がまわっている。二十数藩ある奥羽諸藩のなかでも五指にはいる規模だという。

 新しい足袋を履かせてくれたぬいが立ち上がった。


「さて、外を駆けてこられたのです。お腹がおすきでしょうからさっそく夕餉にいたしましょう。体をうごかしたあとのご飯とは、格別においしいものなのですよ」

「あ、待って」

「はい?」

「あの……ごめんよ、もう二度としないから。ぬいは……ぬいは大丈夫なのか。父上から怒られたりはしないか? 追いだされたりはしないか?」


 ぬいはやわらかく微笑して、ゆっくりと首を横に振った。


「大丈夫です。ありがとうございます。藤太さまはなにもご心配なさらないでください」


 そう言い残して出て行くと、すぐに夕餉の膳をはこんできた。

 ぬいの言ったとおりだった。

 いつもよりご飯がおいしい。米粒が甘く感じられる。苦手なハタハタの塩焼きやいぶりがっこも、モリモリと食べられた。口いっぱいに食みながら、高窓から流れてくる外の様子に耳をすました。

 のんびりとした秋虫の音と、使用人たちの足音、生真面目な声がする。

 屋敷はすっかり平静をとりもどしたようだ。

 まるでさっきの騒動などなかったかのように。

 そしてこの離れには、誰も存在しないかのように。

 せまく閉ざされた世界でじっと暮らしてきたとはいえ、藤太も十三歳になった。

 ぬいのおかげで読み書きができるし、むかしばなしもたくさん聞かせてもらったし、論語や和歌もかじり知った。

 だから祖母と使用人たちの反応や、ぬいの狼狽ぶりを見ればわかる。

 きっと皆は忘れていたのだ、藤太がここにいることを。

 どうして自分はここで暮らしてきたのか、どうして外で人と会ってはならないのか、その理由についてなんとなく察するところがある。

 真実をたしかめたい衝動と、知ってしまう恐怖が、一滴の感情となってわき起こった。ふたつの心は混濁としてグングンと広がり、もはや止めようのない欲求に姿をかえた。

 夕餉を終えたあとだ。

 ついに思いきわめたすえ、その欲求が言葉となってこぼれでた。


「ぬい、俺の顔はどうなっている? 自分ではわからないから教えてほしい」


 膳を下げていたぬいが、びくりと肩をすぼめて手を止めた。

 しばらく重い沈黙がただよったのち、ぬいが母屋から黒々とした漆塗りの丸いものをもってきた。正面に端座してそれを差しだし、消え入りそうな声で言った。


「こちらは、鏡というものです。どうぞご覧になってください。なかに藤太さまのお顔がうつって見えます」

「かがみ……?」


 藤太が鏡というものを知ったのは、これがはじめてになる。

 まるで宙にうかぶ小窓のようだった。

 おそるおそる身をのりだす。


「ひっ!」


 バケモノのような奴が、向こう側からじっとこちらを見ていたのと目が合って尻もちをついた。

 奥歯をくいしばってもう一度、慎重にのぞきこむ。

 やはり見まちがいではない。醜いバケモノがそこにいる。

 右と左があべこべについた目。

 よれて真横を向いた鼻先。

 牙をむいた獣のごとく上唇がめくれあがり、歯ぐきまでズルリとあらわになっている。

 そっと指先で目と鼻と口をなぞり、肌の感触をたしかめてみた。

 小窓の向こうにいるバケモノも、おなじ仕草で真似をする。


「これが、俺の顔……」


 ここ数年感じてきたあらゆる疑問が一気にとけた。

 たちまち地が割れ、真っ暗な奈落の底へ吸い込まれてゆく心地がして、寒々しい孤独をおぼえるのだった。

 そのあいだぬいは、頭を垂れ両手で膝をかたくつかみ、肩を小刻みに震わせ何もいわずにいた。

 藤太がぽつりと言った。


「悪かったよ、ぬい」


 顔をあげたぬいの双眸は真っ赤に染まっている。


「やっぱりぬいの言うとおりだった。俺はひどい病だ」

「いいえ、ちがいます。藤太さまは――」

「ああ、よかったぁ!」

「え……」


 藤太は諸手をなげだして後ろに転がり、わざとおおげさに背伸びをした。


「ぬいがいてくれてよかった! だってもしもぬいが側にいなかったら、俺はここまで大きくなれなかっただろ? だから、これからもずっとここにいてくれ」

「藤太さま……」


 ぬいの瞳がいっとき涙に濡れはしたが、もっともそれはほんの一瞬のことで、彼女はさっと押しぬぐってしゃんと背筋を正した。


「はい、もちろんですとも。これからもぬいがお側におります。私はどこにも行きませぬ」


 腹底から響く力強い声音、端然とした挙措、屹とした面差し。

 いつものぬいが戻ってきて力強く首肯してくれたので、藤太は安堵したのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る