(二)ちいさな脱走②

 すっかり日も沈んだころ、無事に屋敷までたどり着いた。

 ぬいは母屋のほうで夕餉の仕度にいそしんでいて、わずか四半刻しはんときにもみたない藤太の脱走にまだ気づかない様子でいる。

 ほっと胸をなでおろしたところへ、聴きなれぬ音が耳にとびこんできた。

 カン、カン、カンッ――

 なにかと思い耳をすませば、子供らしき声と、十年ぶりに聞く父左門の声がした。


「えいっ、えいっ、ええい!」

「よし、いいぞ。もっと、もっとだ、初太。お前は筋がよいな、ハハハ」


 吸いよせられてそっと柱の陰から中庭をうかがい見ると、きりりと白鉢巻を頭に巻いた初太が、木の棒を手に左門と打ちこみをしていた。

 縁側には継妻がいて、それそれとはやして穏やかに微笑んでいる。


「あれは何をやっているんだろう」


 藤太は小首をかしげたが、かわいらしい初太の姿に思わず頬が弛んだ。


「あれが、俺の弟か……」


 ひさびさに見た父は、藤太の記憶よりもだいぶ恰幅がよくなって威厳に満ちているような気がした。

 ぬいによると左門は、君公の御前に召されて国学の講義を披露したのを機に、見こまれて郡奉行という役に抜擢された。いまや藩政にとって欠かせぬ人となったというのだから、たいへんな出世である。

 白津地家は知行の石高が増えた。使用人を多く置いて賑やかになりもした。

 話を聞かされるたび、父を誇らしく思えたものだ。


「ちち、うえ――」


 名を呼んで駆け寄りたい衝動にかられはしたが、声が喉でつかえて出てこなかった。

 足もすくんで前にでてくれない。

 それは自分が離れで一人暮らす理由を、ぬいからこう言い聞かされてきたからだ。


「藤太さまはお日様に長くあたると死んでしまう病なのです。流行り病にもかかりやすく、お母様もおなじ病で亡くなってしまわれました。この離れは藤太さまの病が悪化しないよう、お父様が特別に建ててくださったのですよ」

「どうしてぬいしか来てくれないの?」

「私は流行り病にかかりにくい体質で、お母様のお側に長らくついてきた実績がございました。でもほかの方は会ってはならないというお医者さまのお言いつけです」


 だからもしも外に出ているところを見つかったら、きっとぬいが父から叱られてしまうにちがいない。それだけはいけない。ぬいがかわいそうだ。

 ぎゅっと歯をくいしばり、踵をかえし離れへ戻ることにした。

 その時だった。

 振り返った先に、小さな老婆が立っていたのである。

 藤太の顔をみあげた老婆は、眼球がこぼれ落ちそうなほど目を見開き、腰を抜かしてその場にへたりこんでしまった。

 はじめはそれが誰なのか藤太もわからなかったが、淡い記憶をかきまぜているうち、自分の祖母であると取りだすことができた。


「そうだ、この人はおばばさまだ」


 にわかに懐かしい親しみがわいてきて、藤太は一歩二歩とまえに出た。


「おばばさま。俺だよ、藤太だよ」


 しかし祖母は、地のうえでガマガエルのように緩慢に這い、向こうへ逃れようとする。


「だだ、だれか、だれかある……ば、ばばばば、ばけものじゃ。ばけものがでた!」


 ただならぬ声を聞きつけた使用人の侍が二人、まず駆けつけた。

 藤太の顔をあらためるなり、ぎょっとして何秒か棒立ちになりはしたが、すぐに我をとりもどし左右に散った。

 腰を低く割り、刀の柄に手を置く。


「曲者、曲者だ!」


 男と女の声がそこかしこからあがり、蜂の巣をつついたように屋敷じゅうが騒がしくなった。

 中庭では別な使用人が、左門ら親子を奥へ退避させる。


「おのれ賊ばらめ、どこから紛れこんだ。ここが藩ご重役のお屋敷と知っての狼藉か!? 斬除あるのみ!」


 そろって勢いよく抜刀し、青白く光る切っ先を突きつけ迫った。

 思いがけず侍たちの冷たい敵意を浴びて藤太はあわてた。


「おい、待ってくれ。俺だ。俺は――」

「問答無用、キエイ!」


 甲高い気合とともに、上段の斬撃がヒュンと振り下ろされた。

 藤太は目をつむって身を縮めたが、転瞬、なにかが割って入った。

 ぬいである。

 包丁を逆手に持ったぬいが、横から太刀筋を弾いたのだった。


「はやまりますな! こちらは藤太さまです。離れにお住まいの藤太さまなのです」

「な、なに……とうただと。とうた、とうたとうた……はて」


 しばし念仏のように唱えていた侍たちであったが、やっと何かを思い出したようにハッと顔を見合わせ、抜き身を後ろに隠して即座にひざまずいた。

 物陰から見ていた下女たちは、さきほどの祖母と同じ反応で腰を抜かしている。

 藤太を知る古株は、見ないように視線をそらし、新参者たちを屋敷のなかに押しこんだ。

 つま先だちで藤太の身にしがみついたぬいが、小袖で顔を覆いかくす。

 いつの間にか藤太は、ぬいの背丈を頭ひとつぶんも追い越していた。十三歳にしては成人なみに大きいので、ことさら祖母と使用人たちが驚いたのだ。


「もうしわけございません! すべては私の不注意によるもの。もうしわけございません、まことにもうしわけございません……どうか、どうか……」


 何度も何度も、誰に対し詫びているのかは知れない。

 静まりかえった屋敷のなか、ぬいの振り絞る声だけが行くあてもなくさまよっては消えた。

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