雷風の剣
葉城野新八
(一)ちいさな脱走①
母が藤太を身ごもったとき、妊娠五ヶ月目に流行り病でひどい高熱をわずらった。その時にあわてて取りよせた薬がよくなかったらしい。
藤太は先天の奇形だった。
右目が左目よりも二つぶんずれ下がった位置にあって、瞼が落ちて眠たそうな半眼をしている。鼻先は右に曲がり、それに皮膚が引かれ上唇がつねにめくれあがっていた。
取り上げた産婆は尻餅をつき、顔を見た生みの母が思わず、
「ひっ……」
と短い悲鳴とともに生まれたばかりの藤太を放り投げ、気絶してしまうほどだった。
祖父母などはひどく気持ち悪がり、幸運にも待望の男子が生まれたというのに近づこうともしない。
そのショックがたたったのだろう。
産後の経過がわるかった母は出産から十日後、わずか十八の若さで帰らぬ人となってしまった。心根のやさしい秋田美人だったそうだ。
藤太が三つのころ、継妻が嫁いできた。
すぐに子を身ごもったのであるが、そうと判明するやいなや、藤太は屋敷内の蔵を改築した離れで一人暮らすことになった。
面倒は下女のぬいがみてくれる。何ひとつ不自由を感じなかったが、父と会えないのは寂しい気がした。
やがて継妻は、元気な男子をなした。名は初太という。
祖父母の喜びようといったら、それはたいへんなもので、朝から晩まで大人たちの笑い声が、屋敷のほうからにぎやかに漏れ聴こえてくる。
藤太も弟の顔を見てみたいと思ったが、離れには南京錠がかけられてあったので、かなわなかった。
あるとき、
「ぬい、外にでたい。はつ坊の顔が見たい」
とせがんでみたら、ぬいがご飯をよそっていた茶碗をとりおとし、身を小さく丸めてさめざめと震え泣く。
きっとたいへん悪いことを言ってしまったのだと子供心に悟ると、それからは二度と言わないようにした。
ぬいは生母の嫁入りのときに側付女中として白津地家にきた人だった。
年は文化生まれの三十がらみ、天明年間に武家から農家に帰農した家の娘で、身のこなしと口ぶりは武家女そのものである。読み書きと箸の使いかた、そのほかの作法のいっさいをぬいが教えてくれた。
藤太が好き嫌いや駄々をこねると、きまってしゃんと端座して、まっすぐな声音で語り聞かせた。
「それではいけません。よろしいですか。藤太さまはお武家さまであられるのです」
「おぶけさま?」
「はい。私たちのような卑しき身分の者よりも、ずっとお偉いのです」
「ふーん……」
「でもその代わり、お偉いからこそやらねばならぬことがたくさんあるのですよ。たとえば百姓と町人よりも立派で強くないといけません。お勉強もできないといけません。なぜなら秋田の領民と封土、そして君公をお守りするのがお武家さまのお役目だからです」
「くん……こう?」
もちろん幼い藤太には、ぬいが何のことを言いさしているのかよくわからなかったが、なぜだか胸のうちにじんとほのかな熱をおぼえたものだ。
そうこうしているうち、鉄格子のついた高窓のなかで日が登り、また沈みゆく。温かい季節がきて、寒い季節にかわり、季節めぐりを十回ほど数えた。
十三歳のときだ。
夕餉の仕度で多忙だったぬいが、うっかり施錠を忘れてしまったことがあった。とくにこれが初めてというわけでもなく過去に幾たびかあったが、それでも藤太が外に出なかったので、どこかに心の弛みもあったのだろう。
藤太は、はじめて屋敷の外へ出た。
蔵から出て、門をくぐり抜け、通りの中央に立った。
晩秋の夕暮れは早く、人通りも少ない。西からくる海風が、ひんやりと爽やかだった。
はじめはおそるおそる、探るように歩いた。
一歩、二歩、五歩、十歩……三十歩。
しだいに心が軽くなってきて、いつしか大胆に、全力で駆けていた。そういえばまともに走った経験がない。足下でドタバタとみっともない音がした。
何度もよろけてはこけた。それでも胸のうちからこんこんとあふれだす好奇心が手をさしのべ、もっと行ってみよと背を押す。
「広い……広い、広い!」
駆けても駆けても、まっすぐな道が尽きずにつづく。
濠に沿う道を駆け抜け、つきあたりを何度か折れる。
楽しい!
生まれてはじめて味わう感覚だった。
茜色に染まる白壁の櫓が視界の右手に入った。
立ちどまって見上げる。
息がひどく切れていて、口からとめどなく流れでる
「あれが、ぬいの言っていたお城……というものかな。くんこうという人がいるところ」
ひととおりの欲求を満たされた藤太の脳裏に、ふと、ぬいの叱る顔がよぎった。
こんどは来た道をあわてて駆けもどる。
人が歩いているのを見つけると、物陰にかくれてやりすごした。
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