第4話 遠き山

叔父で医師の亮庵りょうあんが辻原家に駆けつけ

意識のない香子の手当てをした


手当てを終えた亮庵りょうあんが客間へ入ると

忠之亮ただのすけ房之亮ふさのすけが落ち着かない様子で待っていた


「なんとか出血を止めねば、わししばらく泊まり込むぞ」

「宜しくお願い致します」

叔父の亮庵りょうあんの言葉に忠之亮が深々と頭を下げる


房之亮が不安な面持ちで亮庵りょうあんに尋ねる

「やはり傷は深いのですか」


「深い。肋骨が二本折れている一月ひとつきは安静にせねば

 まったく相手にとどめを刺すため己の身を切らせるとは

 大した負けず嫌いだわ」


「叔父上、お部屋の支度が出来ましたのでお休み下さい」

と声を掛けに来た道世が忠之亮ただのすけ房之亮ふさのすけの顔を見るなり


「あなた方は何をしているのです、この事変の後始末が

 まだ済んでいないのですよ

 早く糸賀いとが様のお屋敷におい来なさい

 何の為に香子が命懸けで刺客を倒したと思っているのですか」


そう言い終えると勢いよく障子を閉め大きな足音を立てながら

香子の部屋へ向かった


――   ――   ――

傷を負って三日目、亮庵りょうあんの治療の甲斐があり

香子は目を覚ました

その間、道世は香子のそばを離れず看病に明け暮れていた


香子の意識が戻った知らせを聞き

忠之亮ただのすけは廊下を走り駆け付け

「無茶をしおって、心配をおかけおって」

と心配が余り過ぎ怒り出す


道世は

「良くぞやり切りました、それでこそ辻原家の女です

 立派でしたよ香子」

と母のごとく香子のほほを撫でながら語りかける


「はい義姉ねえ様、香子は逃げずに戦いました」

「偉かったわ、香子」


妻と妹の遣り取りをさえぎるように忠之亮ただのすけ

「嫁入り前の娘が体に傷を残して

 それでは一生嫁に行けないではないか」

妹の意識が戻り嬉しいのに、何とも不器用な男である


香子はまだ力の無い弱々しい声で凛と言い放つ

「尼になる身なれば、嫁入りの心配はご無用にございます」


叔父の亮庵りょうあん

忠之亮ただのすけ、代々辻原家の男は女にはかなわんのだから

 それ以上は言うな

 有り難い事に糸賀ご家老より見舞いまで頂戴したしな」

と言い笑い出した


それから一月ひとつきの間、女中のイクが

肋骨の折れている香子の身の回りの世話をした

イクが

「お嬢様、こんな大変な怪我をされて可哀想に」

と直ぐに泣くのには香子も困った


香子が傷を負ってから数日後に杉岡家の重延しげのぶ

見舞いの品をたずさえ辻原家を訪れたのだが


玄関で応対に出た道世は

三つ指を着き下を向いたまま重延の顔を見る事無く


「香子がいたしました事は全て興宮藩を守るため

 武家の子女しじょとして当然のことにございます

 ですから杉岡様に礼を言われる筋合いはございませんし

 見舞いの品もお受けする道理がございません

 どうぞお引き取りくださいませ」


そう言われた重延は何も言いえず帰って行った


―――――――――


文月 七月


興宮おきのみや藩では

ひそかに元家老の矢追を含め公金横領に加担した者達が

処分された


次兄の仲小川なかおがわ房之亮ふさのすけ

上司の勘定方筆頭も事変に加担していたため失脚し

代わって勘定方筆頭にと出世した


今回の騒動は

藩主の命で緘口令かんこうれいが敷かれ何事も無かったように

穏やかな日常が繰り返されている


ただ人の口に戸は立てられぬのは常である

ちまたでは香子が一人で十人相手に大立ち廻りをしただの

刺客を一太刀ひとたちで切り捨てたなどと

事実に反した大袈裟おおげさな噂が独り歩きしていた


杉岡家では

重延しげのぶと近藤千鶴の祝言が

身内だけで、しめやかに執り行なわれた

数日後には重延と千鶴は江戸へ旅立ち

一人暮らしとなった重延の父・重平太じゅうへいた

隠居願を出して家督は重延が継ぎ

城下の住まいを引き払い農村に小さな家を建て

畑を耕しながら隠居生活を送っている


―――――――――


葉月 八月


興宮おきのみや藩に短く暑い夏が訪れた


香子は折れた肋骨は無事に完治したが

胸の傷痕は消えることは無かった

体を慣らす為にと叔父の亮庵りょうあんに勧められ

最近は毎日、木刀を持ち素振りをしている


そんな香子の今の願いは一日も早く出家する事である

得度とくどしたい旨を手紙にしたた

山を越えた向こうに立つ尼寺に送り

返事を受け取った

尼寺からの返事には、迎え入れる事は可能であるが

剃髪ていはつすれば二度と俗世に戻ることはできないのだから

よくよく考え、家の者とも相談するように書かれていた


香子の気持ちに変わりはない

むしろ、藩を守るためといえども人をあやめたことで

早くあの山を越え出家したいとの思いは日度に強くなり

悶々もんもんと過ごしていた


そんなある日、城から辻原家に使いが来た

使いをよこした主は藩主の生母、芳光ほうこう院で

忠之亮ただのすけと香子に登城するようにとの事である


さすがに男装束では不味かろうと

香子は数ヶ月ぶりに娘らしい色柄の着物に袖を通し

髪を結い上げ簪を刺し謁見した


「辻原忠之亮、この度の働き大儀であった

 香子よ傷は良くなったか」

「はい、木刀で素振りができる程に良くなりました」

「それは上々。香子の活躍は実に見事、褒美をつかわす」


目の前に出された品は絹の反物たんものと簪であった

香子はその品を見て困惑した

芳光ほうこう院は香子の様子に気付き


「気に入らぬか」

と尋ねた

香子は頭を下げ

滅相めっそうもございませぬ、ただわたくしはこれより尼になる身

 せっかくのお心遣いが勿体無いと存じまして」

其方そなたは藩を出て山を越え尼寺に行くと申すか」

「はい、その所存にございます」

「それは輿入れ破談になったからか」


香子は少し躊躇ためらいながら

「さように御座います」

と答え芳光ほうこう院が破談の事を知っているのに驚いた


其方そなたには藩のために働いて欲しいのだ

 だからまらぬ私情は捨てよう」


詰まらぬ私情、その言葉が香子の胸に突き刺さる


「其方は女子おなごの身ながら丁嵐あたらし流免許皆伝であり

 その上に薙刀なぎなたも短刀術も相当な腕前と聞き及んでいる」


芳光ほうこう院は矢追事変における香子の活躍を知り

密かに調べさせていたのだ


「そこで、その腕を見込み奥女中達の剣術の指南役しなんやく

 頼みたいのだ」


香子は突然の話しに面食めんくらった


わたくしが指南役にでございますか」

女子おなごいえども事変が起きたならば

 命を懸けて殿をお守りするが役目

 その役目を果たすには強くなければならぬ

 香子、皆を強くせよ」


なんと無茶な事を言うのかと香子は思った

稽古をすれば誰でも強くなる訳ではない

しかし、前藩主の正室であり

現藩主の生母である芳光ほうこう院の言葉は絶対であり

断ることなど出来ようが無い


「辻原香子、芳光ほうこう院様の意に叶うよう

 尽力いたします」

「そうか、では頼んだぞ」


立ち上がり部屋を出ようとした芳光ほうこう院は立ち止まり

背を向けたまま

「香子よ人生とは思いも寄らぬ事が起きるから面白いのだ

 なにも悲観することは無い

 この世に男は掃いて捨てる程おる、忘れるな」

と言い残し立ち去った


――   ――   ――

城からの帰り道

忠之亮ただのすけも香子も無口だった


忠之亮は、妹が大変なお役目を頂戴してしまった

粗相そそうなく果たせるのかと心配でならない


香子は、尼になる為に超えるはずだった目の前の山を

遥か遥か遠くに感じていた


帰宅すると忠之亮と香子が芳光ほうこう院に呼ばれ

登城したと聞きつけた房之亮ふさのすけが待ち構えていた


芳光ほうこう院からのめいにより

香子が奥女中達の剣術指南役に任ぜられた事を聞くと

房之亮ふさのすけは膝を叩き

「でかした香子、これは辻原家のほまれじゃぞ」

と喜び

道世は静かに

芳光ほうこう院様が言われる事はもっともです

 事変が起きた時に主君をお守りするのは家臣の勤め

 香子、身命をかけてお役目を果たしなさい」

「はい、心いたします」


―――――――――


霜月 十一月

香子が週に二回、登城し奥にて剣術指南を勤め始めて

一年と三ヶ月が過ぎた


一昨年の今頃にラクぞうとイクをしたがえ雪のちらつく中

杉岡家へ重延の為にと届け物をした事を思い出したが

悲しくも無ければ恨めしくも無い

そんな事よりも気がかりはイクのことだ


香子に尽くしてくれたイクは昨年に郷里に戻り輿入れした

見送る時に

もし辛ければ、夫が大切にしてくれなければ

直ぐに迎えに行くから便たよりりを出すようにと約束したが

一度も便りは来ない

便りが無いのは良い便りとは言うが気がかりで仕方ない


――   ――   ――

奥女中への稽古をし始めてから

よく帰りが重なり顔は知るが名前は知らない若侍が

香子の隣りに並び

「いまお帰りですか」

と声をかけてくるようになった

「はい」

と一言だけ返し歩き出すと若侍はそのまま隣りを歩き続ける

香子は気まずさを感じ歩みを遅めた

すると若侍も歩みを遅める


香子が感じる気まずさの原因は

矢追事変後にちまたに流れた自分の噂話である

一人で十人を相手に大立ち廻りをした

刺客を一太刀ひとたちで切り捨てた

更には香子が恐ろしくて縁談が破談にされたなどと

どれも大きく間違った噂ではあるが

そんな噂がある女子おなごと肩を並べていては

相手に迷惑な噂が立つのではと気まずいのだ


だが無理に引き離すのも気まずい様に感じ

仕方なく何時いつもそのまま肩を並べ歩く

別に話すことも無いし相手の名前すら知らない

香子も若侍も前だけを見て無言である


しばらく歩くと

「ではわたくしの家は彼方あちらですので」

と会釈をし若侍は路地を曲がる


初めの頃、香子は少し苛立いらだった

別段用がある訳でも無いのに最後まで肩を並べて歩かれ

なぜ自分が気疲れしなくてはならないのか

もう二度と御免だと

わざわざ若侍に合わぬように下城時刻をずらしていたのに

又しても例の若侍と一緒になってしまった

若侍は

「いまお帰りですか」

と声をかけ香子は

「はい」

と一言だけ返事をしそのまま二人で肩を並べ歩きだす


仕方ないので香子はまた下城時刻をずらす

それでも例の若侍と一緒になってしまう


そんな事を何度も繰り返すうちに

香子は面倒になり時刻をずらすのを止めた

別に挨拶をし一緒に歩くだけなのだからと

気にせずに捨て置く事にした


そのうちに若侍は

今年は雪がよく降りますね、暖かくなってきましたね

などと香子のことは見ずに前を向いたまま

一言だけ話すようになった

不思議なもので何時いつの間にか若侍と歩く事が

違和感の無い当たり前になっていた


顔見知って一年も経つのに

相変わらず若侍の名前は知らない













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