第3話 免許皆伝
出家して尼僧になると言っても
自分勝手に家を出て頭を丸める訳にはいかない
先ずは家長が藩に届出をし許可を得なくてはならない
その家長である長兄の
「最近は珍しくお勤めが忙しいらしい」
との言葉通り忠之亮は忙しそうである
まぁ慌てずともこの先は死ぬまで尼寺で暮らすのだから
と香子は考え
道場主の
師匠の
子の無い兵衛は
「それなら倉瀬家の養女になり
香子の剣術の腕を埋もれさせるのは勿体無い」
と言い出したが
「いえ、尼になります」
香子にそうきっぱりと断られ実に残念そうにしていた
「ならばせめて出家するまで毎日、
稽古をつけに来てくれまいか」
と頼まれ、師匠への恩返しになればと香子は快諾した
兵衛には幼い時から道場に通い世話になった
女の身で免許皆伝となれたのも兵衛の熱心な指導のお陰である
と感謝していた
それから毎日、道場へ通い稽古に励んだ
―― ―― ――
梅雨の時期だというのに今年はまだ雨が降らないでいた
夜に
香子が兄達への茶を持ち忠之亮の部屋の前まで来ると
ただならぬ話が聞こえてくる
「してやられた、江戸から戻った内の一人が矢追家老に寝返り
江戸の殿が糸賀家老に命じられ我々が手足となり掴んだ
矢追家老の公金横領の証拠を
「それで追っているのか」
「いま重延が追っている」
「危ないな、矢追家老は殺しにくるぞ」
「危ないのは重延だけでは無い、糸賀家老も我々も狙われている」
「いかん、死者が多く出れば
廊下で聞いていた香子は大方の話の内容を理解した
しかも江戸生まれ江戸育ちの新しい藩主は
まだ一度も興宮に足を踏み入れた事がない
家老の矢追は国家老筆頭で以前より悪い噂が有った
その矢追家老の不正に気付いた糸賀家老が
江戸の殿に上訴し杉岡重延と他二名を調査のために
興宮へよこしたのだ
兄の
と言うことなのだと
「それはお家の一大事という事なのですね」
いきなり入って来て
「盗み聞きをしたのか」
と忠之亮は
「茶をお持ちしただけです」
と湯吞みを乱暴に置き
「矢追家老はいま
香子は
房之亮
「それがどうした」
と言うと香子は
「寝返った者は書簡を直接、矢追家老に手渡すはず」
「なるほど」
と感心する兄達に
「なるほどではありません
一刻を争う時、早くその者を取り押さえ書簡を奪い返さねば」
「矢追家老は今夜は
それを聞くと香子は
香子は腰に刀と脇差を差し姿を現した
「どこへ行く」
驚いて忠之亮が問うと
香子は落ち着きながら
「お家の一大事、武家の娘として役目を果たしに参ります
それに、お約束しましたので・・・」
そのまま香子の後ろを付いて行く
玄関まで来ると突然、香子が
「いかがした」
と
「風が湿ってまいりました雨が降りそうです
足袋が濡れては斬り合いの時に足が重くなりますので」
「なるほど・・・いや危ないからお前は行くな」
「お言葉ですが私は
兄上様らよりも強うござりますれば心配ご無用」
「香子」
騒ぎを聞き付け道世が姿を現し義妹の名を呼ぶ
道世は
「香子、辻原家の名を汚さぬように励みなさい」
「はい」
力強く返事をして香子は家を出て行き
その後ろ姿を忠之亮と房之亮は
「何をしているんです、
と道世に
二人は慌てて刀を腰に差し香子を追いかけた
―― ―― ――
香子は左手の親指を
走る事をせずに同じ速度と歩幅を保ち速足で進んでいる
房之亮が
「急を要するのになぜ走らない」
と問うと
「走っては己の足音で人の気配や物音を聞き逃します
それに刀を抜く間合いにずれが生じますので」
「なるほど、さようか」
と感心している
この次兄、
士族の
亡き父、
房之亮が論語をすらすらと
それ以降は
矢追家老が居る
香子は足を止めた
暗闇の向こうから
香子は足を速めた
足を速めながらも腹に深く息を吸いゆっくりと吐き
呼吸を乱さずに音の元へと近づく
「見えた」
と同時に香子は鯉口を切り
「香子、走っては
慌てて香子を止めようとする
「構うな房之亮、香子は間合いを計って走り出したのだ」
そう言いながら
「香子、殺してはならぬ」
続けて
「そうだ香子、
と言い放つ
香子は背中で兄達の声を聞き苦笑しながら
「難しいことを
峰打とはそう
相手の体に当たる直前に刀を
これには相当な技術を要する
当たり所が悪ければ命を奪い、良くても骨を砕くのが
峰打ちである
香子の名を聞き
相手が上段から振り下ろす刀が当たりそうになる
それを香子が下から弾き、そのまま肩に峰を振り下ろす
峰打を喰らい鈍い音と共に相手は地面を転げまわる
肩の骨が砕けたのだ
残るは二人
香子は突きを入れ相手を
すかさず腰を落とし最後の一人の
重延は、あっという間の香子の立ち回りに
「重延殿、早く書簡を取り上げよ」
「急ぎ
重延は
六年ぶりの再会に何と声を掛けたらよいのか戸惑っている
と思っていたのに期せずしての再会となり
一人気まずく居心地が悪かった
しかし、ここで礼を言わねばと
「助太刀を頂きかたじけない」
香子は
「お家の一大事に働くのは武家の者として当然のこと
貴方様に礼を言われる筋合いはございません
それにお守りするとの約束を果たしたまでの事」
重延は香子の口から
再会に戸惑った
そして、お守りする約束とは誰との約束なのかと考える
―― ―― ――
糸賀家老の屋敷までの
香子が小声で
「先ほどから一人付けてくる者がおります」
同じく気づいていた
続けて香子が
「気配から察するに相手は
そう言うと
「それは矢追家老が
剣客を
「糸賀家老のお屋敷は目と鼻の先
あの者は
大兄上達は走ってお逃げください」
「
との言葉に香子は
「この先にも待ち伏せがあるやも知れません
その時は大兄上だけが頼りですので
ここは
「香子の言う事は
と
無論、
だがお家の一大事である、藩士として私情は捨て置かねば
しかし重延は
「追手が剣豪ならば香子殿が危うい、私は同意しかねます」
「元より死は覚悟しております、でなければ刀は抜けませぬ」
「しかし・・・」
「あの
必ず重延様をお守りすると」
その言葉に重延は幼き日の事を思い出し、はっとした
それは許婚として初めて会った時
剣術の稽古に励む香子に
「将来は安心して守って貰える」と言ったら
必ず重延様をお守りしますと、確かに香子は約束していた
香子を裏切り傷付けた自分との約束を守り通すと言うのか
重延は香子にした仕打ちを思い
それ以上言葉を発する事ができなくなった
房之亮が
「四人で次の路地まで走り右に曲がり
三人はそのまま糸賀家老のお屋敷を目指す
香子は曲がった所で迎え撃て
あの者は藩士ではなく浪人、切り捨てて構わぬ」
と香子に聞かせた
「あい承知致しました」
そう返答する香子の顔は剣士となっていた
忠之亮の合図で四人は一斉に走り出す
追手の者も見失なうまいと走り出す
角を曲がった所で香子は一人立ち止まり呼吸を整え
鯉口を切り
追いかけて来た浪人風情の男は香子の姿に気付き足を止めた
「私共に何か御用ですか」
静かに香子が言葉を投げると
男は刀を居合い抜き切りかかってきた
香子は咄嗟に刀を抜き刀先を交えながら
後ろへ一歩跳ねび
その一手で香子は察する
男が自分より強く人切に慣れていることを
暗い夜空から、雨がぽつり、ぽつりと降り始める
―― ―― ――
男は刀を
再び居合切りがくる
香子はそっと男の足先に視線を落とし
次の居合の角度を探り二手目も押さえながら後ろに跳ね飛んだ
今度は男は刀を
高度な居合い抜きであるのに男がそれをしないのは
早く自分を倒し
ならばこちらにも勝機は有ると香子は確信した
男は間髪入れずに刀を振り続ける
それを一手一手確実に刀で受け止める香子
闇に覆われた城下に刀と刀が
香子は刀を受け止めながら後ろへ後ろへと下がる
この狭い通りは戦い慣れた男に有利だ
ここを通り抜け道幅が広い通り出た方がよいと判断し
意図を図られないよう一方的に押されている風を装う香子
そして狙い通りに広い通りへと出る
この
暗い空から降る梅雨の雨は量を増やす
香子は草履を脱いだ
男の刀を刀先で受け流し後ろへ大きく跳ね下がる
次の手も刀先で受け流し後ろへ大きく跳ね下がる
その次の手も刀先で受け流し後ろへ大きく跳ね下がる
次も次も次も香子は受け流しながら大きく跳ね下がる
男は何度切り込んでも仕留めきれない香子の逃げ腰と
どこから切り込んでも仕留めきれない
その身軽さに
次の上段から切り下げた一手を
香子は
男の刀が肩から胸にかけ入り香子の手から刀が落ちる
男はこれで仕留められると気が緩む
しかし、香子は同じ動きを繰り返しこの時を待っていたのだ
素早く身を翻し後ろ向きで男の胸に深く脇差を刺す
男は眼を見開いたまま後ろに倒れ息絶えた
それを見届けた香子も膝から崩れ落ちた
梅雨の雨が体を包み込み、
肩から胸にかけ負った傷から血が流れる
雨に覆われた地面を蹴り走る複数の足音が聞こえる
「香子、香子」
長兄の
忠之亮は香子の体を起こし揺すりながら大声で呼びかける
「香子、香子しっかりせい」
香子は薄っすらと目を開け弱々しい声で
「大兄上」
「なんじゃ」
「そんなに揺すられては傷が
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