第2話

 浜尾さんはくたびれた量販店のスーツに、ボサボサした頭と、不健康そうだなあという印象の人だった。それでも不潔には見えなかったのは、スーツはきちんとブラシがかけられてるなと思うくらい、挨拶するたびに眺めるスーツは白いところがどこもなかったし、ボサボサしている頭でも目はきちんと見える程度には切り揃えられていたからだ。多分あれだけボサボサなのは、癖毛がひど過ぎるんだろう。

 そんな浜尾さんは、私が声をかけても視線を右往左往と彷徨わせるばかりで、なかなか答えてくれない。

 こんなところにしゃがまれたら、私が家に入れないからなんだけどな。仕方ないから、それを口に出してみることにした。


「ええっと……玄関塞がれてますので、このままじゃ家に入れないんです」

「あ……! ご、ごめんなさい! ちょっと……本を……落としてしまいまして」

「本?」


 そこでようやく床に視線を落として納得した。紙袋の底が破れてしまって、そこに入れていたらしい本が散乱してしまったみたいだ。最近はなにかとエコエコ言ってくる割には、すぐに破れてしまうもの、すぐに駄目になってしまうものばかり無料提供してくるから困る。本屋で無料で配られる紙袋もビニール袋も、今やすっかりとへたってしまい、ちょっと重量オーバーしただけで簡単に破けるようになってしまった。


「あー……困りますよね。最近の紙袋って弱くて」


 私はそう言ってしゃがみ込んで、紙袋を拾い上げると、その周りに散乱した本を拾い集める。浜尾さんは慌てたように訴える。


「だ、大丈夫ですよ! 自分で拾いますから! 自分を跨いで、すぐ家に帰ってくださ!」

「いや、さすがに人を跨ぐのはちょっと」


 スラックスなんだから、そりゃ跨いでも問題ないとは思うけれど、ご近所さんを跨いで帰るのは申し訳なさの方が強い。

 本にはどれもこれもカバーはかけられていない。ちょっと大きめの本だけれど小説みたいだった。そして。裏表紙はどれもこれも見覚えがある。最初は「あれ?」と思って本を拾うのに集中していたけれど、一冊だけ表表紙が丸見えになっている本と目があった。


『濡れ肌に熱情 乃々原かしこ』


「あ、それ私の本です」

「へあ……?」


 気付いたら口にしていた言葉に、私のほうが喉を詰める。

 ……うそん。パートさんの話の内容を知らぬ存ぜぬ貫き通すために、アルコール摂り過ぎた。普段だったら絶対に口が裂けても言わないのに、なにお隣さんに暴露しているんだ。

 そもそも。

 お隣さんがばら撒いた本は、私のも含めて、全てBL本だった。どこの会社も全部私が原稿を上げたことのあるところばかりだったから、そりゃ裏表紙だけ見ても、「見覚えがあるな」と思うはずだった。

 世の中には腐男子という人種がいるとは知っていた。ときどき私の元にもそういう人たちからファンレターが届くことはあったし、SNSでも見かけるから、いるところにはいるんだろうなあくらいに思っていたけれど。お隣さんがそういう人とは思っていなかった。今までずっと挨拶していたのに。

 私が言った言葉に、浜尾さんは口元を抑えて、あからさまにうろたえはじめた。

 どうしてオタクって、男女問わず突然の推しの登場に皆同じ反応をするんだろう。浜尾さんがどの程度のオタクなのかは知らないけれど。


「あ、あの……乃々原かしこ先生……ですか?」


 うろたえながら、尋ねられた。頷く。


「はい」

「せ、先月発売されたオメガバース連作集は!?」

「『恋は遺伝子』」

「暁出版の看板シリーズは!?」

「もうあそこ廃業しましたけど……『揺り椅子紳士』シリーズ」

「し、七月に出る新作は!?」

「私もあれ編集さんから正式タイトル聞いてないんですよぉ。今は『異説ロマンチカ』カッコ仮で通販サイトだとタイトル登録されてますね」

「ほ、ホンモノだ……」


 というより、世の中には世に出ているBL小説を全部網羅している人がいるとは風の噂で知っていたけれど、それがお隣さんだとは私も知らなかったわ。というか、編集さんでもここまで詳しい人そんなにいないのに。

 いつもたどたどしい浜尾さんが、うっとりとした目で訴えてきた。


「あ、あの……自分、ずっと乃々原かしこさんのファンでして……」

「ありがとうございます……」


 こう声に出して言われたのは初めてだ。こちらが万が一にでもパートさんにバレるのが嫌で、顔出しイベントの打診は全部断っているし、サイン本も編集部が本屋に配る分しか書いたことがないから、今までファンが実在するのかどうかも、ファンレターもらってさえ信じていいのかわからなかった。

 そう言っている間に、浜尾さんが「ギュルル」とお腹を鳴らす音を立てた。どうも本を拾い集めていて、未だに食事を摂ってなかったようだ。ここで引き留めちゃって申し訳なかったな。私はそう思って本を差し出した。


「ファンにファンと言われたの、初めてで嬉しいです。ですけど、食事は摂ってくださいね?」


 そう言って本を受け取る浜尾さんを見ると、浜尾さんは心底恥ずかしそうに顔を赤くした。なんだ。まだなにかあるのか。


「……新刊買うのに、財布に入っていたお金全部使っちゃったんで、給料日まで水だけ飲んでます」

「はい?」


 オタク、ソシャゲの担当期間中にやりがちな案件、どうしてこの人がやっているの。私はダラダラと冷や汗を掻いた。


「ク、クレジットカードは……?」

「既に限度額越えてるので、来月まで使えません」

「ICカードとかは」

「もう電車賃くらいしか入ってないですね」


 私のファンを名乗る人が、オタクにありがちなギリギリオタク貧乏生活で餓死しかかっている。

 衝撃で打ちのめされつつ、私は「ちょっと待ってください!」と悲鳴を上げて家に飛び込んだ。

 私も毎週締切に追われて、一度職場で倒れて救急車で運ばれている。唯一私の副業知っている院長には相当怒られてからは、懲りてそんな生活送ってないから、カロリーと糖分は常に気を配っている。

 前に安かったからと買い置きしていたレトルトカレーに電子レンジで温めるご飯を手に取ると、そのまま家の鍵を探してもぞもぞしていた彼に「浜尾さん!」と声をかけた。

 浜尾さんはかなり驚いた顔をしていた。


「かしこ先生?」

「……その呼び方は外では辞めましょう。食事持ってきました」

「えっ?」

「これ食べてください。別に返してくれなくていいですから。ほら」

「えっ?」


 正直、レトルト食品を押しつけているだけだから、感謝しろなんて恩着せがましいことは言えない。ただ隣の人が実は私のファンで、知らない内にファンが野垂れ死んでいたら、しかも自分の新刊を買ってだとしたら、こちらが申し訳なさで頭を抱えてしまうっていう、それだけの話だ。

 浜尾さんはキョトンとした顔をしたあと、私の押しつけたレトルト食品を、先程の本たちと同じく、大事に大事に抱えた。


「あ、ありがとう、ございます……おやすみなさい」

「おやすみなさい」


 そのままそれぞれ家に帰っていった。

 なんというか。乙女だった。ファンというか、乙女だった。

 今日はさんざん知らない人の個人情報を聞かされ続けて耳が腐るかと思ったし、院長先生の娘さんやら私やらへの結婚しろコールで辟易したしで、ずっとむしゃくしゃしていたのが、最後の最後で癒やされてしまった。

 都市伝説だと思っていたファンに会えたし、初めて腐男子という人に会えた。なんだかいいな。

 変に和みながら、私はシャワーを浴びて寝ることにした。

 明日は休みだし、原稿の直しもない限りは、惰眠を貪っていることにしよう。


****


 その日はうだうだ惰眠を貪る予定だったのに、突然の電話で目が覚めてしまった。

 世の中固定電話を持たない家が増えてきているけれど、仕事の電話や通販の注文は、電波に左右されない固定電話のほうが未だに強い。

 私は寝ぼけまなこで「はい、もしもし……?」と電話を取ると、苛ついた男性の声が飛び込んできた。


『柏原さんの家で合っていますか!?』

「あ、はい。私です。失礼ですがどちら様で……」

『こちらの大家ですけど、家賃が払われてないんですけど、どうなってるんですか?』

「え……?」


 私は思わずどもる。うちは通帳からの振り込み式で払っているから、振り込みを忘れなかったら家賃は普通に引き落とされているはずなんだけれど。私は枕元に固めているお菓子の缶詰から公共料金引き落とし用の通帳を引っ張り出し、「あ」と気付く。

 普段は通帳にお金を入れに行くのに、その日に限ってシフト変更があったから、入れ忘れていた。電気代やガス代が先に引き落とされるけど、こまめにお金を入れてなかったら、家賃が足りない。


「た、大変申し訳ございません、すぐに支払いを!」

『大変申し訳ないけど、ひと月は様子見てあげるから、出て行ってくれないかな?』

「はあ?」


 今時そんな無茶苦茶なこと言う大家なんていないのに。私は「待ってください! すぐにお金は支払いますし!」と言うものの、大家さんを名乗る人の声は冷たい。


『困るんだよ、うちも一日でも支払い遅れるのは。一日くらいと許していたら、どんどん増長していって、しまいには家賃滞納のまま住み着くのも出るから。だから、一日でも家賃の支払いが遅れた場合は、うちを出て行ってもらってる。こっちだってすぐ出て行けなんて言ってないんだから、ひと月の内に荷物をまとめな』


 そう言って一方的にガチャンと電話は切れてしまった。

 ツーツー……と鳴る音を耳にしながら、私は唖然とする。

 いくらなんでも無茶苦茶過ぎる。こんな理不尽な大家さんは平成を最後にいなくなったと思っていたのに。とにかくひとりで考えてもしょうがないだろうと、私は慌てて不動産会社に相談することにした。

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