第56話 武士の鑑

 時は遡り、軍議の最中。

 義信は家臣たちを集めると本当の作戦を説明した。


「釣り野伏せ、にございますか?」


 義信が頷く。


「鉄砲の強みは攻め寄せる敵に対して甚大な被害を与えることができるところにある。

 ……そこで、三方から時をずらして攻め寄せることで、信長に決戦を急がせるのだ」


「なるほど……」


「東海道の軍を退けたのちは、ご隠居様の軍と上杉の軍と戦わねばなりませぬからな……」


「織田のケツに火をつけた、ということか……」


 長坂昌国と曽根虎盛が納得した様子で頷く。


「しかし、織田の兵数はこちらを上回る。まともにぶつかっては、厳しい戦いを強いられるだろう」


「そのための釣り野伏せ、にございますか……」


 釣り野伏せとは、釣り隊が敵をおびき寄せ、森や草むらに忍ばせた野伏せ隊で包囲、奇襲を行なう戦法である。


 説明を聞いて、飯富虎昌がううむと唸った。


「織田に悟られずに包囲をするとなれば、釣り隊は織田と戦い、適当なところで敗走を演じてもらう必要がありますな」


「ううむ……そうなると、やはり釣り隊が鍵というわけか……」


 長坂昌国が考え込む。


 成功すれば敵に壊滅的な打撃を与えることができるが、敵を野伏せの元まで誘導することが前提の作戦だった。


 当然、敵を誘導する釣り隊は敵に追撃をさせる必要があるため、ある程度の負けを演じてもらう必要がある。


 また、釣り隊が追撃を受けることが前提の作戦であるため、釣り隊の被害が大きくなることは目に見えていた。


 釣り野伏せは、一歩間違えば自軍が壊滅的な被害を被る可能性と隣合わせの危険な戦法であった。


 自軍の主力軍喪失か、敵の壊滅的な被害か。


 危険な賭けではあったが、これが決まればそれだけで勝敗が決するのは間違いなかった。


「問題は、誰に釣り隊を演じてもらうか、ですな……」


 下手をすれば、自軍が壊滅し、追撃の中で命を落としかねない。


 そんな危険な作戦を前に誰もが二の足を踏む中、義信の口がニヤリと歪んだ。


「演じてもらう必要などない。……なんなら、本当に潰走させればいい」


「まさか……邪魔な国衆を配置されるおつもりですか!?」


「それも考えたが、もっと適任がいる」


 飯富虎昌が首を傾げた。


「…………どういうことにございますか?」


「いるだろ。いくら消耗しても、当家にとって痛くも痒くもない軍が」






 柴田勝家率いる織田軍に背後を急襲され、神保長職は後方の武田軍に向かって潰走を続けていた。


「逃げろ逃げろ! 逃げねば撃たれるぞ!」


 家臣たちを急かしながら、神保長職が一心不乱に敗走する。


 越中守護と引き換えに中央の軍を引き受けたが、織田軍は予想以上に強かった。


(こんなことなら、安請け合いするんじゃなかった……)


 後悔する神保長職であったが、今さらそんなことも言ってられない。


 今はただ、生き延びることだけを考えよう。


 雑兵たちに混ざって我先に逃げ出す神保長職に向けて、織田軍が鉄砲を一斉照射した。


 パァン!


「うっ……」


 破裂音と共に、足が熱くなる。


 どうやら、織田軍の鉄砲が足に当たったらしい。


「くそっ! くそっ! こんなところで、儂は死なんぞ……!」


 家臣に肩を借りながら、神保長職はなおも退却を続けるのだった。






 柴田勝家率いる織田軍が神保軍の背後を強襲する中、飯富虎昌率いる赤備えが織田軍の脇腹に急襲を仕掛けていた。


 織田軍を真一文字に駆け抜けると、追撃を始めていた織田軍が真っ二つに切り裂かれた。


「今ぞ! かかれ!」


 飯富虎昌が声を張り上げると、付近に潜ませていた伏兵が襲いかかる。


 それと同時に退却を始めていた右翼と左翼が反撃に転じ、織田軍の包囲を始めた。


「本気と見せかけて戦い、適当なところで退けとは……。お館様も無茶なことをおっしゃる……」


 長坂昌国率いる左翼が残された織田軍に攻めかかる。


「やられてばかりでは、腹の虫が収まらぬ……! 倍返しにしてくれようぞ!」


 曽根虎盛率いる右翼が柴田勝家に迫った。


 これまでの攻勢から一転、武田軍の反撃が始まると、織田軍は徐々に劣勢に追い込まれていった。


(これは、まずいぞ……)


 気がつけば、敗走していたはずの武田軍右翼、左翼が織田軍に反撃を始めていた。


 このままでは武田軍に包囲殲滅されかねない。


 不利を悟った柴田勝家が顔を歪ませた。


「……退くぞ!」


 川向こうの本隊へ戻ろうとした柴田隊であったが、その行く手を阻むように赤備えが立ち塞がった。


「その首、貰い受ける!」


 飯富虎昌が采配を振るうと、赤備えたちが柴田隊の背後を強襲する。


 全方向を武田軍に囲まれ、今の柴田隊は風前の灯火であった。


 柴田隊の誰もが死を悟る中、ただ一人、柴田勝家は前を向いていた。


「この柴田勝家を舐めるなッ! 道を塞がれたとて、己で切り開いて見せるわ!」


 柴田勝家が刀を抜くと、潰走を続ける神保軍に刃を向けた。


「これより、武田軍を破り、義信の首を取りに行く! 者ども、ここが死に場所と心得よ!」


「「「オオオオオオ!!!!!」」」


 勝家が駆け抜けると、柴田隊がそれに続く。


 死を覚悟した柴田隊の猛攻は凄まじかった。


 神保軍を壊滅させ、義信軍の一陣、二陣を破り、義信の本陣にまで迫る勢いであった。


 しかし、背後から襲いかかる赤備えに一人、また一人と倒されていく。


 武田軍奥深くまで切り込んでいき、ついには義信を眼前に収めた柴田勝家であったが、ここまでだった。


 背後からは赤備えに。正面からは義信の側近に槍で貫かれ、勝家はその場に倒れた。


 鬼神の如き形相で息絶える勝家に、武田軍の兵たちは思わずたじろいだ。


 兵たちを制して、義信が前に出る。


「……見事な死に様だ。この者こそ、武士の鑑よ」


 死地においてもなお活路を見出した柴田勝家の奮戦は、後世において武士の鑑として語り継がれるのだった。






あとがき

 通常、釣り野伏せを行なう場合、釣り隊はもっとも練度の高い将兵が担うこととなります。

 しかし、これは釣り隊も生存し、反撃に転じる場合の話です。

 わざと潰走させ敵の追撃を誘うだけなら、練度が低くてもいいよね。

 まして、全滅しても痛くも痒くもない軍があるなら、それを使えばいいよね。

 というのが、義信の作戦になります。

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