第18話 朝比奈泰朝の失態

 朝比奈泰朝の武田義信詰問から半年後。 


 武田義信が三河返還を申し出たものの、依然、今川家に三河が返される気配が見られなかった。


 朝比奈泰朝を呼びつけるなり、今川氏真が怒鳴りつけた。


「どういうことじゃ! なぜ義信殿は三河を返そうとしない!」


「そ、それがしにも、どういうわけだかさっぱり……」


「泰朝! もう一度、義信殿のところへ行ってまいれ! なんとしても三河を返還させるのじゃ!」


「はっ!」


 怒気を強める今川氏真に、朝比奈泰朝はただただ頭を下げることしかできなかった。






 岡崎城に再びやってくると、朝比奈泰朝は義信を問い詰めた。


「若君、これはいったいどういうことですか!」


「どうされた、そんなに慌てて」


 飄々と受け流す義信に、朝比奈泰朝は語気を強めた。


「三河のことです。若君はすぐにでも返すとおっしゃりました。……しかし、あれから半年も経つにも関わらず、未だ音沙汰ないではありませぬか! それがしにも立場というものがあります。今日という今日は、よい返事を頂くまで帰りませぬぞ!」


 朝比奈泰朝が床に根を生やしたようにどっしりと腰を据える。


 義信としてはそれでもまったく構わない。……いや、これからのことを考えれば、むしろその方が都合がいい。


 そこまで考えて、義信は頭を振った。


 落ち着け、自分。まだ早い。


 義信はちらりと窓の外に目をやった。


「いやな、未だ三河の国衆が反抗的でな……。そのような状態でお返しするわけにもいくまい。それゆえ、しばしの間私が預っているのだ」


「聞くところによれば、家臣たちに三河の土地を分け与えたというではありませんか。……これでは、三河は武田の土地と言っているようなものでしょう!」


 朝比奈泰朝が唾を飛ばしながら義信に迫る。


 なるほど、これを言いくるめるのは骨が折れそうだ。


 義信は作戦を変えることにした。


「ふむ……朝比奈殿がそこまでおっしゃるのなら、起請文をしたためよう」


「おお……よろしいのですか?」


「構わぬ。……元より、三河は返すつもりでいたのだ。これくらいわけない」


 小姓に紙と筆を持って来させると、義信が3ヶ月以内に三河を返却するとの旨を記した起請文をしたためた。


 朝比奈泰朝が文に目を通す。


「……たしかに。必ずや殿の元にお届けいたします」


 御免、と言い残して、朝比奈泰朝が義信の元を後にした。




 岡崎城を出ようとして、朝比奈泰朝は一人の若武者にぶつかった。


「おっと……」


「すまぬ。それがし急いでおる身ゆえ、御免!」


 頭を下げ、朝比奈泰朝が駆け足で厩舎に向かう。


 その背中を、ぶつかった若武者──真田昌幸が静かに見つめるのだった。






 駿河に戻った朝比奈泰朝は、すぐさま義信との交渉の成果を報告するべく今川氏真の元に参上していた。


「おお、戻ったか! どうであった?」


「はっ、若君より三河返還の起請文を預かりました。これに……」


「おお、でかしたぞ!」


 朝比奈泰朝に渡された包みを開くと、氏真が目を剥いた。


「……………………どういうつもりじゃ」


「はっ……? いったい、何が……」


 状況のわかっていない朝比奈泰朝に、氏真は渡された紙をつきつけた。


「この紙のどこか起請文じゃ! 白紙ではないか!」


「はっ!?」


 朝比奈泰朝の頭が真っ白になっていく。


 そんなはずはない。あの時、自分はたしかに受け取ったはずだ。


 どこかに忘れたり、落とすようなこともなかったはずだ。


 強いて言えば、岡崎城を出る際に武田の家臣と思しき若武者にぶつかったくらいで……


(あの時か……!)


 泰朝の中で点と点が繋がった。


 間違いない。きっと、あの時文をスられたのだ。


「やられた……」


 打ちひしがれる朝比奈泰朝に、すべてを察したのか氏真が睨みつける。


「どういうことじゃ、泰朝! 大事な書状をなくしたなどと……どう申し開きをするつもりじゃ!」


 氏真に詰め寄られ、朝比奈泰朝の目が泳いだ。


「これは、罠です……。武田がそれがしを陥れようとしているに違いありません。そうでなければ、こんな……こんなことが……」


「言い訳無用! お主はしばし謹慎を申しつける。当分私の前に顔を出すでないわ!」


 氏真の勘気に触れた朝比奈泰朝は、ただただ平謝りをするのだった。

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