第49話 畑のマリア 栽培を始めたんだ
陽が傾き始め夜気を纏った風が二人の頬をなでる。夕暮れせまるあずまやで話し合いという名の彼らの攻防戦は続く。
「ビアンカ、そのヘンリエッタは結婚する」
「結婚」の二文字を聞いた途端、ビアンカの瞳から涙があふれ出た。それを見たサティアスが慌てふためく。
「え? ちょっと待って、なんで泣くの?」
「気にしないで……ください……祝福の涙です。そうなのですか、とうとう」
ビアンカが嗚咽を漏らす。サティアスは困惑した。
「そう? 随分と大袈裟だね。ええと、やっぱり僕の勘違い? ビアンカが慕っていたのは、僕ではなくて、ヘンリエッタなのか?
ビアンカ、とりあえず聞いて。そのヘンリエッタに、ぜひ兄妹揃って来て欲しいと結婚式に招待されているんだ」
「え、招待?」
流していた涙がぴたりと止まり、ビアンカがきょとんとする。
「そう、ヘンリエッタの結婚式に。お相手は、僕の友人のイアン、覚えてる? 彼だよ。二人からぜひにと招待されている。お前は一応この一年病気療養という事になっているから、加減が良ければ、ぜひ会いたいと」
すると今度はビアンカの顔色が青くなる。
「お兄様が、ぐずぐずしているから、取られてしまったのですね」
それを聞いたサティアスが額に手を当てた。
「……ああ、なるほど、そうか、そういう事か」
「何を納得されたのですか?」
ビアンカが悲しそうな顔をする。すると兄が突然噴きだした。
「ははは、いや、いいよ。わかった。ビアンカ、おもしろい」
突然笑い出した兄にビアンカは置いてきぼりを食らった。
「何がおかしいのです」
ビアンカが少し気を悪くする。するとサティアスは「そういう事なのか」とつぶやき、なんとか笑いをこらえた。
「ビアンカ、とりあえず、僕がヘンリエッタのことが好きだと言う、刷り込みを消してくれないか?」
「え……」
「どうして、そう思いこんでしまったんだ。子供の頃、ヘンリエッタとよく一緒に遊んでいたから?」
ヘンリエッタとは幼馴染みだ。
「あの、前に婚約寸前までいったんじゃないですか?」
「婚約? そんな話、出ていないよ」
「ジュリアン兄様が言っていました。それに殿下も」
サティアスが珍しく言葉に詰まる。
「いつ?」
「海辺の別邸での夜会の時」
「まったく……。それで何が聞きたい?」
今度はさすがに否定しなかった。
「お兄様と学園に通っていた頃に感じたんです。ヘンリエッタ様はお兄様のことが好きでしたよね」
ビアンカの言葉は断定的で、嘘は許さないというように兄の瞳をじっと覗き込む。さすがにサティアスも彼女の澄んだ瞳に見つめられ居心地が悪くなる。やがて降参するように両手を上げた。
「好きだって言われた。彼女の父に婚約を申し込んでくれと頼まれた。それに尾ひれがついて噂にでもなったんだろう」
「それで、お兄様は?」
「断ったよ」
よくよく考えてみれば、優秀な魔法使いでもあり将来を嘱望されていた兄が、公爵家を継げないことを理由に婚姻を断られるはずがないのだ。ビアンカも兄がある程度嫉妬されている事には気付いていた。きっと勝手な噂を流されたのだろう。
「どうしてですか?」
「どうしても何も付き合っていたわけではないし、そんな気になれなかった」
「それは、私に手がかかったからですか?」
「確かにお前は手がかかるが、それはそれで楽しいから構わない」
「え?」
今度はビアンカがきょとんとなる。
「手はかかるし、心配もするが、足手纏いと思ったことは一度もないし、叶うならずっと手元に置いておきたいと思っている。僕はお前をそんなに大切にしていなかったか?」
サティアスが忙しく、顔を合わせる間もないときもあったが、いつも必要な時はビアンカのそばにいて助けてくれた。
父のことがあった後も彼は最大限便宜を図ってくれていた。
「いいえ、私は、とても大事にしてもらっていました」
兄の言葉に申し訳なく思い俯く。
「それなのに、どうして家出なんかするんだ。僕が悲しむとは思わなかったのか。それとも一緒にいて息苦しかったのか?
ビアンカ、どうか黙っていなくなったりしないでくれ。気を使わなくていい。きちんと言葉にしてくれないか?」
「ごめんなさい」
ビアンカの瞳から、ポタリと後悔の涙が落ちる。やはりきちんと話をすべきだった。兄はこうしていつでも対話してくれたのに……。また説得されてしまうと、逃げてしまった。
「それで、今日は迎えに来たつもりなのだけれど、一緒に帰る気はあるのか? それとも、もう少しここにいたいか?」
「お兄様、私は修道女に」
その言葉はサティアスの強い口調に遮られた。
「お前が帰って来るまで、僕はずっと待っている」
ビアンカの瞳が戸惑いに揺れる。
「お気持ちは嬉しいですけれど、ちゃんと結婚してくださいね」
「ビアンカが帰って来るまで結婚できないよ」
「なぜです! そんなのダメです」
ビアンカは慌てた。修道女になりたいと言っているのに、兄は何を言いだすのだろう。
「なら、帰って来てくれる?」
「お兄様、狡いです」
サティアスが柔らかく微笑む。
「ふふふ、お前が帰らないなら、僕も修道士になるかな」
「お兄様がそんなことを言ってはダメです。領民はどうなるのですか? それに公爵家としてのお仕事もあります」
「今は、国が安定しているから、うちが必要なことはそれほどないよ」
「そうなのですか?」
ビアンカが不思議そうに首を傾げる。
「そうか、ビアンカはそういう事に興味はないか」
「そういう事ですか?」
「そう、ケスラー家の歴史、ずっと公爵家であり続けた理由だよ」
本当に分からない。
「不思議だね。どうしてそんなビアンカが、あの秘密の部屋にはいりこんでしまったのかな」
「お導きです」
神妙な顔で言うビアンカにサティアスがあきれる。
「暇を持て余して屋敷を探検していただけだろう?」
「……そうとも言います」
ビアンカが恥ずかしそうに口ごもる。
「お前が、出て行ったことを知らなくて。領地の土産に加え、王都の人気のカフェで新作のデザートを買って帰ったんだが、どこを探してもいなくてね。サロンががらんとしていて驚くほど広くみえたよ」
確かに公爵邸のサロンは驚くほど広いが、比喩だというのは分かる。あまり見せないサティアスの寂し気な表情にビアンカの胸がちくりと痛む。
「ケーキの生地と南国のフルーツとクリームの組み合わせが絶妙だったらしい。ああ、僕は、甘いものはそれほど食べないから、使用人達にあげたよ。その時聞いた感想だ」
たいてい兄は使用人達にもお土産を買って帰る。
「……そうですか」
兄の足枷になりたくない気持ちと、勝手に家を出て図らずも兄を苦しませてしまった罪悪感がせめぎ合う。
知らず知らずに消耗し、ビアンカの修道女になろうという意気込みは、先ほどから、凄い勢いで、ゴリゴリと音をたてて削られていく。
そして兄は知っている。この修道院でビアンカの大好きなデザートが出されることはないと。
「ああ、そうそう、ジュリアンが好きに使っていた温室でキュウリの栽培を始めたんだ」
「えっ!」
キュウリの言葉にビアンカが素早い反応を見せる。残念ながらここの畑では育てていない。苗が手に入らないし、そんな余裕はないのだ。
思わず身を乗り出すと、薄く微笑む兄の顔があり、ビアンカはうっかり罠にかかってしまった気になった。
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