第25話 夜会後

 苦しい。息が出来ない。誰か助けて……もがけば、もがくほど沈んでいく体。死にたくない……。


 恐怖に叫び声を上げる。



「ビアンカ! 大丈夫か?」


 誰かの温かい手がビアンカの手を握る。目を覚ますとベッドの上に横たえられていた。サティアスが心配そうな顔で覗き込んでいる。


「お兄様」

「良かった意識が戻ったんだね。何か飲み物を持ってこよう」


 兄の手をぎゅっと握り、震えだす。


「お兄様、待って、行かないで!」

「どうした、ビアンカ?」

「わ、私、思い出したんです!」

「思い出したとは……過去のことを?」


 ビアンカは首を振る。


「違います。バルコニーから……」


 そこでビアンカの言葉が途切れる。


「バルコニーからどうしたのだ?」


 サティアスがビアンカの瞳を覗き込む。ハッとするような濃い青。どこまでも透きとおっていてすべてを見透かすような瞳。ビアンカは兄のこの目が好きだ。


「なんでもありません。ただ、水の中が暗くて冷たくて、苦しくて、そのことを思い出して」


 恐怖に声が震える。兄がぎゅっとビアンカを抱きしめた。


「ビアンカ、無理に思い出さなくていい」


 サティアスの言葉にビアンカの瞳から涙が溢れだした。


 家族はみな無理に思い出さなくてもいいという。あのとき、海に落ちる瞬間、ふうわりと体が浮く感覚があった。誰かが魔法を発動したのだろうか、それとも将来に絶望した自分が……。


 高位貴族の家で魔力のない当主が二代続くことはない。ビアンカさえいなければ、長兄はケスラー家の跡取りになれる。



 そこにある記憶に、手を伸ばして掴もうとした瞬間、泡となって消えた。


 

 ビアンカは浮かび上がった思いの一端を口に出す。


「お兄様、どうやって私を見つけたの? 見つかってよかった?」


 結局、思考はそこに行きついてしまう。サティアスが軽く目を瞠る。


「どうしたんだ、ビアンカ? 見つかって良かったよ」


 彼は使用人を下げさせると、水差しからグラスに水をそそぎ、ビアンカに手渡した。


「何か話したいことがあるのか?」


 そう言われると何から話して良いかわからない。ビアンカはゆっくりと考えを巡らせる。


「お父様が以前、お兄様が私を探して下さったとおっしゃっていました。私は隣国の小さな海辺の街にいました。いくら朱色の瞳が珍しいからって、隣の国にいる人間がそんなにすぐに見つかるものかと思って」


「最初は、いろいろな可能性を考えた。落ちたと見せかけての家出かもとか、あの頃のお前は思いつめていたように見えたからね。

 それと同時に潮の流れを調べ、あの時間帯に流されるとしたら、隣国のあの海岸付近に着くと予想したんだ。海路だとここからそれほど離れてはいない。それからあとは朱色の瞳の少女を探すだけだから、この別邸を拠点に噂を集めた」


 やはり兄が探し出して、見つけてくれたのだ。


「あの、おかしなことを言うようですが、私は記憶を失っていたし、やっぱり見つからなかったとお父様に報告することもできたんじゃないですか」


 一瞬、サティアスの瞳が夜の海のように翳りを帯びたような気がした。


「何を言いだすんだ。本当にお前が無事でよかったよ。さきほど、あの場には殿下やフローラがいた。何か吹き込まれたのか? 辛いことがあったらいってごらん」


 いつもよりずっと優しくあやすような長兄の口調に、ビアンカは子供のように泣き出した。


 あの王子と婚約なんかしたくないといってもサティアスを困らせるだけだから、口をつぐむしかない。


 でも、結局こうやって頼ってしまう……。






 舞踏会が終わったが、学園の休みはまだまだ続く、それは社交シーズンも同じで……。レジーナとエレンには舞踏会に来たついでに三日ほど滞在してもらった。彼女達にも茶会や夜会などの予定があるから、そう長くは引き留められない。


 二人が帰る前日。海の見える庭で午後の日差しと心地よい風を浴びながら、ルビー色のハイビスカスティーを飲んだ。テーブルの上にはガラスの器に盛られた瑞々しい桃が置いてある。


「レジーナもエレンも婚約者と仲が良くて羨ましいわ」

「私は、まだ内定よ」


 とレジーナが言う。


「ビアンカは、その……まだ決まっていないの?」


 心配そうにエレンが聞く。


「ええ、面倒くさくていやだわ。スチュアート殿下だったら、どうしよう。私もあなた達みたいに、幼馴染がよかったわ」


 嘆息する。


「あの、覚えてないかもしれないけれど、ビアンカもスチュアート殿下と幼馴染みみたいなものよ」


 レジーナが言う。


「え、そうなの?」


 初耳だった。レジーナもエレンも頷く。


「公爵家はよく非公式のお茶会によばれていたわ。多分子供の頃からのお付き合いじゃないかしら」


「そういえば、私って、スチュアート殿下の事好きだったの? 覚えてないからわからないのだけれど」


 レジーナとエレンは顔を見合わせる。


「あの頃のビアンカとは親しくなかったから、噂でしかないのだけれど……。それはビアンカの耳にも入っているわよね?」


 エレンが言う。


「私がフローラ様に嫉妬していたという話でしょう?」


「私が見た限りでは、嫉妬と言うよりも、殿下の仕打ちに心を痛めていたというか、諫めていたというか」


 レジーナの口から意外な言葉出きた。


「諫めていた?」

 

「そう、婚約者のいる身で、他の女生徒と公然とべたべたするのは良くないと、常識的なことを言っていたのを聞いたことがあるわ」


 エレンも言う。過去の自分はなかなかのしっかり者のようだ。デブだったけれど。いまよりずっと利口だった。その頃は長兄の手を煩わせることもなかったのだろう。


 第三王子とフローラ……もし一人でかかえこんでいたならば、きっとストレス太りだ。



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