第7話 お兄様の帰りを待ちます
ここに帰って来た日から、一番上の兄とはほとんど顔を合わせていない。
そして、父は忙しく外出が多いので、食事の席はだいたい母と次兄と一緒か、一人でとることも多くなった。
広い食堂で勉強の合間に一人ポツンととる食事は味気ない。食卓はあの海辺の修道院よりずっと豊かなのに、ちっとも美味しく感じない。じゃりじゃりと砂をかむようだ。
次兄のジュリアンは愛想がよくて優しげなのだが、どこかつかみどころがない。
結局、勉強を教えてもらいたくて、無表情で物凄く取っつきにくいイメージの長兄サティアスの帰りを待つことにした。
しかし、彼は学園で生徒会なるものに入っていて忙しいらしい。ビアンカは勉強が一段落(いちだんらく)してから、玄関の周りをうろちょろしつつ長兄の帰りを待つ。やはり、なかなか帰ってこない。
サロンで再び教科書を読みながら、うとうとしていた。
「ジャクソンから聞いたんだけど、私を待っていたんだって?」
兄に声をかけられ目を覚ます。ジャクソンとはこの家の執事だ。
「ビアンカ、寝ていたのか? 疲れているの?」
同じ家に住みながらも久しぶりに会った長兄が、少し心配そうな顔をする。彼の顔を見た瞬間、なぜかほっとする。少なくとも彼は母や次兄のように取り繕った笑顔をうかべない。思わず、家での不満が口をついた。
「ねえ、お兄様。私、朝から晩まで勉強させられているの。でも全然わからないから、辛くて」
それを聞いたサティアスが僅かに片方の眉を上げた。すぐに使用人を下げる。人払いがされたサロンには紅茶の載ったテーブルを挟んで二人だけとなった。
しかし、ビアンカがその状況に気付くことはなく、愚痴は堰を切ったように止まらない。
「家族の顔も覚えていないと言っているのにいきなりテストして、出来ないからといって、お父様からお叱りをうけたの。
『お前は知識を海にたれ流してきたのか?』なんておっしゃるのよ。もう、意味がわからない。
それにジュリアン兄様にわからないところを聞いても教えてくれないの。いつも、とっても暇そうなのに、家庭教師か、サティアス兄様に聞くように言われたわ。
家庭教師の先生に聞いても、そんなことも分からないのかという顔をするし、あの人たち説明が難しくてわかりづらいの。
ねえ、お兄様どう思います? ひどいですよね」
あっけにとられたように聞いている兄を見て、ビアンカは焦れた。
「もう、お兄様、ちゃんときいてくださっているの?」
プリプリと怒りながら言うと、無表情だった兄がいきなりふきだした。
「あはは、ビアンカ、面白い」
ビアンカが必死に窮状を訴えているのに兄が声を立ててわらう。
「まあ、ひどい笑うだなんて!」
ビアンカが悔しくて目じりに涙をためる。
「わかったよ。僕が時間のある時に教えてあげるよ」
この時初めて、兄が自分を「僕」と言うのを聞いた。そして無表情にみえた長兄は笑う事もあるようだ。
「じゃあ、早速教えてください」
ビアンカが逃がさないとばかりに身を乗り出して言うと「いいよ」と拍子抜けするほど、あっさりと承諾してくれた。
「それから、ビアンカ、使用人の前で家族の悪口を言ってはいけないよ」
兄から注意を受ける。
「悪口ではありません。不満です。辛くて辛くて溢れでそうなんです。この屋敷のそばには教会はないのでしょうか? お祈りをすれば少しは落ち着くと思うですが」
「お前は本当に、よくしゃべるな。まるで今までしゃべらなかった反動のようだ。
そうだな。今は教会へ行くのはやめておけ。お前は貴族の娘だ。やたらと外出は出来ない。
気は進まないが僕が時々愚痴を聞いてやろう」
兄が苦笑する。
「貴族って、いろいろと不自由なのですね。ところで、私、しゃべらなかったんですか?」
ビアンカが小首を傾げる。
「お前とは必要最小限の会話しかしたことがないな」
「まあ、そんなんで、私、ストレスがたまらなかったのでしょうか?」
ビアンカが目を丸くして言うと、兄がふいと視線を逸らす。肩が小刻みに揺れている。笑いをこらえているようだ。
「ジュリアンとよく話していたように思うけど?」
笑いの発作を一瞬でおさめた兄がすまし顔で言う。
「確かに、ジュリアン兄様、話しやすいです」
しかし、次兄はのらりくらりとしていて、あてにならない。愚痴など言おうものなら、「いや、僕に言われても」などといって、微笑みながら逃げ出してしまいそうだ。
それからしばらく長兄に勉強を教わってから床についた。サティアスと久しぶりに話せたせいか、その日は不安が頭をもたげてくることもなく、ゆっくり眠れた。趣味の合わない部屋にも慣れてきたようだ。
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