第8話 お兄様、ご一緒に


 次の朝食堂に降りて行くと母のイレーネがいた。いつも次兄のジュリアンといるのに、珍しく一人だ。ちょうど良いと思い元婚約者のことを聞いてみることにした。


「お母様、私はどなたと婚約していたのです?」

「まあ、今更ね」


 イレーネは呆れた様子だ。勉強ばかりでそれどころではなかったし、今まで興味がなかったのだからしょうがない。


「お名前を聞いて、何か思い出せないかと思いまして」


 まだ他人事のような気がするが、婚約が流れたことは結構衝撃的だ。以前の自分を知ることが刺激となって、勉強も思い出すと良いのだが……。


 しかし、母は意外な事を言った。


「知らないですむのならそれに越したことはないわ。誰か知らなければ、たまたま会っても気まずい思いをすることもないでしょう?」


 そういわれてみれば、確かに知らないままでいるという選択肢もありかも知れないと、ビアンカは納得してしまった。


 折角記憶喪失になった事だし、不快な記憶は忘れたままでいいのかもしれない。

 母が言うのだから、きっと間違ってはいないのだろう。





 兄に勉強を教わるようになってから格段と分かるようになってきた。サティアスは家庭教師のようにやたら難しい専門用語は使わない。知識のないビアンカでも理解できるようにやさしい言葉をつかって説明してくれる。


 しかし、自分のことも家族のことも相変わらず思い出せない。その反面マナーは自然に身についていた。それはとても不思議な感覚で、まるで他人の人生を代わりに生きているような感じだ。



(本当に私はこの家の娘なのだろうか?)



 違和感がぬぐえない。家族との関係の薄さにたじろいでしまう。寄せ集めの修道院の方がよほど親密だった。





 そして王都に帰ってから、半月が過ぎた頃、いよいよ学園へ行くこととなった。一時はどうなることかと思った勉強もだいぶ思い出してきた。長兄のお陰だ。しかし、ほぼ三ケ月の遅れを取り戻さなければならない。


 サティアスがまだ早いのではないかと父に言ってくれたが、聞き入れられなかった。



 初登校の日、朝食の席ではサティアスと一緒だった。この家に来て初めてのことだ。


「ジュリアン兄様は?」


 食卓にいなかった。


「もう行ったよ」


 優雅にティーカップを傾けながら兄が言う。相変わらず話す言葉は端的で無駄がない。


「早いんですね」


「彼は馬術部だからね。早朝練習がある。ビアンカは、何も聞いてないんだな」

「そういえば、ジュリアン兄様は、ご自分のことはあまりお話しにならないですね」


 やんわりと避けられている気がする。だが、使用人の前ではそういう事は言わないようにと以前サティアスに言われていた。今も食堂には給仕係が控えている。


 兄はさっと食事を終えると席を立つ。


「あっ、待って、お兄様!」


 ビアンカは焦った。


「なんだ?」

「食べるの早いです」


 そんな妹を見て兄はふっと笑う。


「登校にはまだ早い。お前はあとからゆっくりくればいいだろう?」

「いやです。だってお兄様もう行くのでしょう?」

「ああ」

「ならば私もご一緒に」


 ビアンカが最後はサラダをかきこむように食べる。


「行儀が悪いぞ」


 兄に厳しい声で窘められ、ビアンカは首をすくませた。


「そんなに焦らなくても大丈夫だ。お前専用の馬車がある。それで後からゆっくりくればいい」

「ええーー! なぜ同じ学園に通っているのに別々の馬車で行くのです?」


「え?」


 いつもきりっとしている兄が珍しくぽかんとした表情を浮かべる。

 ビアンカはその隙に慌てて食べ終えると立ち上がった。


「さあ、お兄様一緒に参りましょう!」

「ああ、別に構わない」


 勢いに押されるかのようにサティアスは頷いてしまった。まさか、その後妹から付きまとわれるとも思わずに。







 馬車から降り立つと、ビアンカは歴史を感じさせる壮麗な石造りの建物に目を奪われた。


「緊張しますわ。知らない人ばかりですもの」


 馬車の中で、緊張のせいかサティアスを相手に喋りまくっていた。そして学園に着いた今も困惑する兄をよそに後をついて歩く。


 瀟洒で大きな棟がいくつもあり、同じ世代の生徒が行き来している。


「ビアンカ、下級生の教室はあっちだ」


 サティアスが自分が入ろうといている棟の隣の棟を指差す。


「えっ、お兄様、案内してくださらないの?」

「なぜ?」


 兄の冷たい返事にビアンカが愕然とした。途端に心細くなる。ビアンカにとって、この学園は初めて来るところなのだ。

 サティアスに断られ、肩を落とし悄然としていると、ため息が降ってきた。


「しょうがない。ついて来い」


 ビアンカはぱっと顔を輝かせ、喜んで兄の後についていく。


 結局、教室まで、送ってもらった。その間兄妹は注目の的だった。行方不明だったビアンカが海辺の街の修道院で発見された噂は学園中に広まっていたのだ。


「お兄様、ありがとうございます!」


 ビアンカが元気に礼を言うとなぜか兄が少し疲れたような笑みをうかべた。


「問題を起こすなよ」


 そんな言葉を付け加えた。





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