第5話 海辺の別邸

 手に冷や汗をかき、動悸が早くなる。息苦しくて思わずその場に蹲った。


「ビアンカ、どうした。具合でも悪いのか? それとも何か思い出したのか?」


 意外にも兄が心配してくれている。感情はあるようだ。ビアンカはそれに答えるように、ゆるゆると首を振った。


「いえ、なんだか突然気分が悪くなって。なぜか、この場所が怖いんです」

「無理をさせて悪かった。戻ろう」


 ビアンカは兄に抱えられるようにして、バルコニーを出ると、広間を抜けた。廊下の少し先にあるサロンに入る。サティアスが使用人を呼び、茶を淹れさせた。


 一口飲むと落ち着いてきた。

「寝室で休むか?」と心配する兄に、大丈夫だと答える。一人でいても悶々とするだけだ。それならば、誰かといた方が気が紛れる。


「お前は辛いかもしれないが、父上が一日も早く学園に復帰することをのぞんでいる。明日の朝、王都に行き、それから家庭教師がついて勉強の遅れを取り戻す予定だ」


 兄が今後の予定を淡々と語る。表情があまり動かないせいか、やはりとても冷たい感じがする。


「あの、お兄様」


 彼は肉親である妹に再会できて嬉しいと思っているのだろうか。不安になって声をかける。


「やはり、この日程では辛いか? 気分がすぐれないのなら、父上に出立の日を延ばしてもらおう」


 気遣いの言葉が返ってきて、いくらか安心した。


「あの、私、修道院に戻るわけにはいきませんか?」


 何となく家族から、歓迎されていないような気がする。母の反応も上手く説明は出来ないが、どこかちぐはぐな感じがした。


「なぜ、あのような貧しい修道院に戻りたいのだ? あそこは庶民のためのもので、貴族の娘などいないぞ」


 兄が驚いている。


「私、あそこで修道女になるつもりだったのです。今からでも戻れませんか?」

「いや、無理だ。貴族が入る修道院は別にあるし、何より父上が許さない」


 そういって、サティアスはしげしげとビアンカを見る。


「ビアンカ、かわったな。お前は本当にあのビアンカか? 瞳の色が同じでなければ信じられないくらいだ」


「やっぱり人違いですよね?」


 ビアンカが期待を込めて兄を見る。


「いいや、随分痩せたが、顔立ちも瞳の色も同じだ。朱色の瞳は、ケスラー家にときどき現れる珍しい色なんだ」


 兄がきっぱりと言うのを見て、ビアンカはがっくりした。


「いずれにしても父上の前で修道女になりたいなどと言うなよ」


 少し気づかわし気な目でビアンカを見る。


「どうしてですか?」


 ビアンカは不思議そうに首を傾げる。


「家の為に結婚する。それが貴族の娘の在り方だ。修道院に入りたいなどと言ったら父上が激怒する」


 それを聞いてがっかりしたが、結婚したあと修道院に行くのはありかと思いなおす。あの修道院には離縁した者や未亡人もいた。


「そういえば、お兄様、私は海岸で漁師に保護されましたが、なぜ、あのような場所に打ち上げられたのでしょう?」

「それは、お前が海に落ちたから……」


 サティアスが言いよどむ。


「海に落ちた? どこからですか?」

「先ほど、お前が気分の悪くなったバルコニーから……」

「え? えーー! あのようなところから落ちて助かったのですか!」


 ビアンカは驚きのあまり兄の言葉を遮って叫ぶ。


「お前は風魔法と水魔法を得意としている。そういう者は精霊の加護がある。それで助かったのではないか?」


 どこかで聞いたことがある気もするが、記憶がないのでよくわからない。それに何も思い出せないいま、ビアンカは魔法すら使えなかった。




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