攻略から降りた者

 ティレンは音を頼りに百七十層の前線基地まで早々にたどり着いた。

 中に入るつもりはなかったので迂回しようと体勢を変えたところで、背中にしがみつくアリアレルムがか細い声を上げる。


「てぃ、ティレンさん? は、入らないんですかぁぁ?」

「うん。このままさっさと抜けちゃおうと思って」

「ご、ごめんなさい。わ、私もう限界ですぅ……」

「限界? 限界ってなにが」

「うぷぅ」

「ひぇっ!?」


 残念ながら、ティレンの予定は変更を余儀なくされた。

 この階層の前線基地は、何かと面倒くさいのだ。


***


「ご、ごめいわくをおかけしました」

「いや。グマグから言われていたのに忘れていた俺にも責任はあるから」


 アリアレルムはだいぶ頭の悪い感じになってしまっている。暗闇の中の猛スピードは思ったより消耗を強いていたらしい。反省する。

 革鎧と上着を脱いだティレンは、周囲の目を盗むように水場へと向かう。


「な、なかはあかるいんですね」

「入口が二つあっただろ? 万が一にも外に光が漏れないようにする工夫らしいよ」


 百七十層の前線基地は、巨大な暗幕の中に作られた町のような様相だった。

 被造物系のモンスターしかいない階層は人が少ないのが常だが、ここに限って言えば、人の数は決して少なくない。

 ここを終の棲家と定めた探索者も多く、それなりの賑わいと発展を見せている。

 アリアレルムはまだぼんやりとした口調だったが、きょろきょろと周囲を見回してどことなく懐かしそうだ。


「ちじょうののみやがいみたいです」

「飲み屋街?」

「ええ。よるでもこんなふうにあかるくて、さけのみたちのさわぐこえがたえないんですよね」

「ふうん」


 確かにここは酒飲みが多いし、騒がしい。飲み屋街というのはよく分からないが、地上の雰囲気に近いという話には興味があった。この辺りで探索を続けている連中のほとんどが、地上というものを知らない。今のティレンのように宿願を地上に届けて戻ってきた者だけだから、本当に一握りもいないだろう。

 それでも似た雰囲気になるというのは、自分たちの心のどこかに、祖先の思い描いた飲み屋の雰囲気というのが残っているからなのかもしれない。

 ティレンが装備を洗っているこの水場だって、そもそも今のティレンと同じような使い方のために造られたものだし。


「すぐに出ても大丈夫そう?」

「えっ」


 ティレンとしては、ここに長居したくない理由がある。理由については触れずにアリアレルムに聞くが、表情を見る限りそれは難しそうだ。

 この階層の前線基地が立派なのには、もちろんいくつも理由がある。

 拠点になるものがないと遭難して死ぬ者が多数発生する、というのが第一の理由。

 大きな音を放っているこの施設を維持するためには、ある程度の人数がどうしても必要だったというのが第二の理由。

 そして、この階層のモンスターが稀に落とす装備。どれも極めて質が良いというのが一番大きな理由かもしれない。


「いい装備、ですか」

「ああ。光に群がってくる連中を蹴散らせるだけの実力があれば、ここで良い装備を手に入れることも難しくない」

「例えば、その剣みたいな?」

「これはもっと深い層のヌシを倒した時に手に入れたやつだよ。さすがにここのモンスターが落とすものよりは質が良いかな」


 一時的に腰に差している剣の柄をポンと叩く。

 切れ味や軽さもそうだが、非の打ちどころがないほど相性が良い。ティレンは剣としては今後、これ以上のものには出会えないだろうと思っている。

 ざぶりと水をかけて、上着と革鎧の洗浄が終わる。あとは乾かすだけ。

 人目には極力つきたくないので、どこか空いている寝床を探したいところだ。

 ようやくアリアレルムも調子が戻ってきたようだが、取り敢えずひと眠りはさせておいた方が良いだろう。


「おっ、見覚えのある顔がいると思ったらティルじゃねえか。宿願か?」

「……どうしてこう」


 何だか思ったとおりにいかないことばかりだ。

 宿願を持って地上に向かうというのは、あるいは探索なんかよりずっと難しいことなのかもしれない。

 ティレンは大きな大きな溜息をつきながら、そんなことを思ったのだった。


***


 百六十層で生まれたティレンは、百七十三層から攻略に参加しはじめた。十三歳の時だったから、かれこれ六年ほど前のことになる。

 第八世代と呼ばれる世代が最前線に到達したこともあり、各階層の攻略が平均より早くなったのもこの頃だ。

 第七世代の時も、その前も。最前線に新しい世代が参入するたびに、階層の攻略速度は上がっている。攻略速度がゆるやかになり、世代の限界を感じ始めると新たな世代が台頭してくる。迷宮攻略は、いわばこれの繰り返しだ。いつかはティレンたち第八世代も、攻略の旗手を次の世代に託す日がくるのだろう。

 ともあれ、第七世代の大半がその荷を下ろし始めたのがこの百七十層だった。攻略を終えた後にも多くの第七世代がここに残ったのも、後からやってくる第八世代たちに探索のいろはを教えるのに、この階層が非常に向いていたからでもある。


「銀雷のティレンと、黒刃のヴァルハロートと言ったら、第八世代の中でもとびきりの素材だった。第九世代の時代になっても、こいつらは余裕で最前線を維持できる。そんなやつだと思ったね」

「そ、そうなんですか!」


 百七十前線基地の責任者であるカイナス・ウォーホート。

 第七世代のリーダー的な存在であり、本来ならばティレンやヴァルハロートと共に最前線で探索に加わっていてもおかしくない。本人が言ったところの「次の世代になっても余裕で最前線を維持できる」人物である。


「俺は運良く、宿願が終わっちまったからな。先を目指すより、こういう生きのいい若いのを見送る方が楽しくなっちまってよ」


 カイナスの家へと招かれたティレンとアリアレルムは、そこで一泊することになった。ティレンは嫌々、アリアレルムは喜んで。

 カイナスのつがいであるイアが作った料理に舌鼓を打ちながら、カイナスの話に耳を傾けるアリアレルム。

 終の棲家を定めた探索者は、前線基地に自分の家を持つ。そこで次の世代に宿願と夢を託しながら、のんびりと老いていくのだ。

 ベッドで休めると嬉しそうなアリアレルムとは対照的に、ティレンはむっつりとしながらカイナスの愛息であるコルンの遊び相手をしていた。


「ティレンさん?」

「なんだよティル、別に今更モンスターの間引きを手伝えとか言わねえぞ?」

「……ふん」


 ティレンが不機嫌なのは、ここでカイナスに課された特訓が過酷だったことが理由ではない。いや、それなりに理由に含まれてはいる。ほんの七割ほど。

 辛かった思い出が脳裏に再生されることは、実はそれほど苦ではない。今の最前線での探索にそれがどれほど役立っているか分かっているからだ。

 ティレンが明確にカイナスと顔を合わせたくなかったのは、別の理由だ。カイナスという探索者は第八世代が幼いころ、最前線を突っ走るヒーローだった。最前線でない百七十層で出会った時には驚いた。彼の訓練を受けられると知った時には嬉しくて興奮したほどだ。

 少し後にやってきたヴァルハロートと出会ったのもこの頃。カイナスの元で共に訓練を続け、最前線へと送り出された。

 そう、笑顔で送り出されたのだ。


「カイナス、適当なことばっかり吹くなよ。アリアレルムさんが信じちまうだろ」

「何言ってんだ。お前がここを出て、たった六年だぞ? それで最前線が百八十五層

で、ヌシをやっつけているのは半分がお前かヴァルフだって言うじゃねえの。俺の目は確かだったって、自分を褒めてやりたいね」


 憧れの探索者はもう、探索に戻るつもりはないのだ。

 先を目指す楽しみに目を輝かせるのではなく、やってくる後輩や自分のつがい、子供に愛情のこもった眼差しを向ける。

 そんな形の幸せを、見たくないのだ。

 その幸せを羨むにはまだ早すぎる。だから見たくない、そう思う。


「アリアレルムさんを頼む。百層より下から来たひとだ、無理はさせたくない」


 静かに立ち上がり、外に向かう。

 カイナスもそれを止めようとはしなかった。


「どうした?」

「ちょっと動き足りないんでな。間引きしてくる。疲れたら適当に戻ってくるよ」


 上着と鎧は干したまま。長剣だけを左手に提げて。

 カイナスは何が楽しいのかにやにやと笑い、コルンは何やら尊敬の眼差しでこちらを見てくる。


「そうか。んじゃ、適当に頼むわ」

「ああ。くれぐれもアリアレルムさんに変なことを吹き込むなよ」


 言葉に出来ない居心地の悪さを振り払うように、ティレンはカイナスの家を出て基地の外へと向かうのだった。

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