第26話 調理師免許の落とし穴

 九月、わたしは無事に陸上部を引退した。それでも、なんとなく毎朝のジョギングは続けてはいた。身体を全く動かさないのも気持ち悪いし。

 引退と同時に週三でアルバイトも始めた。家の近所にある(といっても走って三十分かかる)スーパーの品出しだ。遊ぶためにもお金がなければどうしようもない。ライブも行きたかったし、雑誌やCDも欲しかった。

 調理師免許の参考書も購入した。試験は翌月に迫っていたけれど、部活も終わってバイトのない日は勉強にそのまま充てられるから間に合うだろうとたかを括っていた。なにせ、これを取らないと店を継げないと思っていた。実際には最初はお手伝いから始まるだろうし、そもそも調理師免許を持たないと店をやってはいけないというルールもないのでそこまで慌てて取る必要もなかったのだけれど、当時のわたしは店で働くのであれば当たり前のように免許が必要だと思い込んでいたのだった。

「代利子、勉強は捗ってるかい?」

 母親が珍しく部屋にお茶とミカンなんて持ってきて気を遣ってくれた。娘が将来に向けて勉強しているのが嬉しかったのかもしれない。

「試験はどこでやるの?」

 青森駅の近くのビルじゃなかったっけ? と言いながらわたしは参考書の目次を探した。このページに書いてある、と母親に渡すと

「……あんた、これ、申し込み期間とっくに過ぎてないかい?」

 は? と声が出た。母親から本をひったくって顔を近づけて読むと、申し込み期間の欄に書いてある日付が半年近く前だった。ウソだろ、と思った。

 下に降りて書いてあった番号に電話をかけた。繋がってすぐ、あのー調理師免許受けたいんですけどもう申し込みって締切っちゃってんですか? と早口で捲し立てた。電話口の人は呆れた感じの声で

『とっくに締め切ってますね』

 なんとかならないんですか? か弱い女子が泣きそうになってる声を演出して縋るも

『なんともならないですねえ』

 と取りつく島もなかった。頭の固い公務員(?)め! プッツンきたわたしは、調理師免許ないと実家を継がないんですけどねぇ! そういうとこは考慮してもらえないんですかねぇ⁉︎ と、二度と話すことのない相手なのをいいことに自分勝手言い始めた。アホだなぁ……と振り返ると笑えてくる。電話口の人も災難である。そして社会人じゃないとも思われたのだろう。

『……あなた、そもそも実務経験はおありですか?』

 たまに手伝ってますよ! と自信満々に胸を張って言うと

『調理師免許試験の要件のなかに、二年以上の実務経験というのがありますので……それだと満たしていないので、申し込み期間以前の問題になりますね』

 とバッサリやられた。マジですか! 知らなかったです! おせわになりました! わたしは矢継ぎ早に言って電話を切った。

 わたしは電話の前でへたり込んだ。実際のところ、何も考えていなかったのだった。部活を引退するまでは、練習と遊びのことしか頭になくて、それ以外のことの入り込む隙間がなかった。

 もう店継げなくなった、と厨房に立つ父親に力無く言った。

「何言ってんだお前?」

 調理師免許受けられないから店継げなくなった、と分かりやすく言ってやった。

「そんなもん、最初は別になくてもお前……」

 父親は何か言っていたけれど、わたしは自分の言いたいことは言ったので、フラフラとした足取りで居間の方に戻ってテレビをつけた。高校卒業後のビジョンが『調理師免許を取って家を継ぐ』しかなかったわたしは、その道を完全に断たれたと思いボンヤリしていた。まさか申し込みが必要だったとは。そして実務期間も必要だったとは。当然調べていない自分のせいなのだけれど、思い込みって恐ろしいねっていう話だ。

 この時観ていたテレビの内容は覚えていない。何か古いアニメの再放送だった気がする。そんな時に電話が今度は鳴った。無視していたが父も母も取らない。気付かなかったのだろうか。仕方なく立ち上がって受話器を取りに行った。

『三上さんのお宅です⁉︎』

 声だけでエネルギッシュと分かる男の声だった。出前ですか? とぶっきらぼうに答える。

『じゃあカツ丼一つ……って違うよ! 三上代利子さんはいます?』

 誰ですか? わたしは訝しげに尋ねた。怪しい電話のような気がしたのだった。

『陸上監督の小峰です! 君、代利子ちゃん? ボクのこと知ってるかな? 陸上選手を鍛えて強くするオジサンだよ!』

 異様なテンションに呆気にとられたが、小峰という名前は知っていた。インターハイで、浅井監督の隣に座ってわたしを見ていた人だ。

 その時だった。いつの間にかわたしの後ろに母親が立っていて、わたしから受話器を奪い取った。

「またあなたですか! 代利子に直接話をしないでくださいとお願いしたじゃありませんか! 必ず私か夫を通してください!」

 母は叫ぶように言って受話器をガチャンと置いた。それからひとつ息を吐いて、困ったような顔で言った。

「……この人しつこいのよ。アンタがいない時も何度も電話よこして。直接話したい直接話したいって。絶対危ない人だから代利子は相手しちゃダメよ」

 単なる怪しいおじさんではなく、本当に翌年とんでもないことになる人だったのだが……なんだか、いろいろなことがわたしの周りで動き出していると、この時知った。

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