第25話 いい陸上の終わり方

 インターハイ最終日。五日間の長い長い大会のラストを飾る女子三千メートル決勝。

 張り詰めた緊張感のあるスタート前、のはずだったけれど、わたしはその時スタンドにいる浅井監督の隣に今日も座っているヒゲのおじさんのことが気になっていた。

「小峰監督が東北大会の走りを見て、どうやらお前のことを気に入ってくれたらしいんだわ」

 浅井監督の顔は心なしか綻んでいた。鬼の笑顔。小峰監督と言われても、当時のわたしはヘンなおっさんだなぁ〜としか思ってなかった。でも、不思議と気になる。なんというか、醸し出す異様な存在感というか……。

 わたしはこの頃はまだそんなに意識してテレビでやってる駅伝とかマラソンとかを観ることはなかったし、オリンピック中継だって観ていなかった。夜遅くにやってて、たまたま面白い番組がやってなくて、たまたまチャンネルが合えば一瞬だけ眺めたかな〜くらいで。もしちゃんと観ていたら、このおじさんの顔と名前を少しは覚えていたのかもしれなかった。

 陸上好きな人ならこの時点でも多くの人が知っていたのだろうけれど、本当にこの人が有名になるのはこの次の年、シドニーオリンピックからだった。小峰監督の教え子である中谷笑子さんが女子マラソンで日本女子史上初の金メダルを獲得したのだ。その後の二人が一躍時の人となったのは言うまでもないだろう。わたしは、このオリンピックのあたりで「あっあのときのヘンなおじさんマジですごい人だったんだ!!」って知ったのだった。

「代利子ちゃーん! 今日も頑張って走るんだぞー!」

 小峰監督はまるで面識のないわたしのことをいきなりちゃん付で呼ぶような人だったので、わたしは若干……いやかなり引いていた。

「三上さん、小峰監督のとこ行くの? すごいね、世界選手権の銅メダリスト育てた人じゃん」

 隣にいた子にそう話しかけられたので、いや定食屋継ぐけどって答えたら、怪訝な顔をされた。いや、誘われたのは事実だけど、この時点では本当に何もなかったのだった。

 小峰監督のおかげで、いい具合に力が抜けたというのはあったかもしれない。だいたいわたしはレース前に張り切っているときほど失敗する確率が高い。小峰監督くらいの人なら、たとえ面識がなくてもその選手のことを理解してベストな声掛けをできるのかもしれない。


 号砲が鳴った。

 すぐに、やっぱ全国の決勝は違うんだなぁ! と思った。速いからじゃない。遅すぎたからだ。

 決勝ではやはり、みんな負けたくない。正確には、大きく負けたくない。先に行って体力を使ってしまって、ラストのスパートでずるずる下がっていくようなことには誰もなりたくはないのだ。これはジリジリした神経戦になるな、と直感した。誰が最初に仕掛けるか。最初の一周、二周と集団が一塊でまるでバラけずに進んだ。誰もが他人のことを気にしている。いや、一人例外がいるとしたら──アグネスだ。

 彼女は圧倒的な力があった。アグネスに勝とうとしている人は誰もいなかった。だから、みんなアグネスのことだけは気にしていなかったかもしれない。このレースがどんな展開になるとしても、勝つのは彼女だから。そう、始まる前から優勝者だけは決まっているようなものだった。みんなの頭にあったのは、になること。それはこんなレースになるはずだと思う。極端な話、アグネスが動き出さない限り誰も動けない。まるで金縛りに遭ったように。

 残り二周になったあたりで、わたしは青森県チームの応援席にアピールするため拳を高く掲げた。声援が大きくなったが、それは単なるアピールじゃなかった。今から行くから観てて! という意思表示だった。中谷さんはシドニーのマラソンで、スパート前にサングラスを投げた。あれで優勝したから語り草になったけれど、わたしのこれももし優勝してたら伝説になったんじゃないかな? 狭い界隈での話だけど……。

 それからすぐにスピードを一気にトップへ持っていった。とにかくレースを動かしてやるつもりだった。ついてくるのか? こないのか? それは分からなかった。だいたい、ひとのことを気にしていても仕方がない。それよりも自分だ、と思っていた。自分がやりやすいようにやる。それでベストの結果が出たかはわからないが、自分が満足できなければ、たとえ良い順位でも意味がないと思っていた。力を出す。出し切る。それで相手より弱ければ負ける。仕方ない、負けるのは。弱いのだから。

 結局のところ、ここでもわたしは自分が楽しむことを優先した。アグネスに抜かれる瞬間には、やっぱこの人歩いてるみたいに見えるな〜すげ〜! と感動した。わたしも自然に走っているつもりなのに、疲れてくるとやはり色々なところに力を入れようとしてしまう。無意識のうちにスピードをなるべく保とうとするからだ。その結果走りが崩れてしまう。結果的に遅くなる。わたしは面白いくらいに抜かれたが、それでも何人かには勝てたし、昨日の予選でわたしよりも先着した選手のうちの一人がその中に含まれていた。

 きちんと勝負できたなぁ、という実感がゴールする直前に湧いてきた。

 そうだ、こんなにたくさんの人が見てる中で走るのってこれが最後じゃないの⁉︎ とギリギリで思い出した。三年生は一部を除いてインターハイが終わったら引退だ。わたしだって、いよいよ調理師免許取得に向けて準備を始めなきゃいけない。だから、最後にスタンドに手を振りながらゴールした。みんなが拍手してくれていた、良い光景だった。わたしが観客だったら、動きのあるレースの方が観たい。レースを動かしたのわたしだよ、みんな観てた? という思いもあった。たぶん伝わってたんじゃないかな。

 女子三千メートルは十一位で終わった。全国の十一番目だ。わたしは、いい陸上の終わり方が出来たと思っていた。

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