第19話 鬼速留学生

 合宿四日目。疲れはピークにきていたけど、そんなことお構いなしに今日も練習が続く。ただ、この日は座学もあったので、そこは助かった。プロジェクターを使った講義で、ちょうど部屋も暗くされていたのでチャンスとばかりにウトウトしていると、隣から指で突かれて飛び上がりそうになった。なに? 人の休養を邪魔して──睨みつけてやろう、と見ると、日本人じゃなかった。

「これどうよむですか」

 黒人だ。そういえば、一人いたな。エチオピアかどっかからの留学生らしいと聞いた。日常会話はなんとかこなせても、読むのはまだ難しいらしい。そりゃそうだ、と思い資料を覗き込んだけど、残念ながらわたしにも読めない漢字だった。ゴメン読めない、と謝ると、アンタ日本人だよね? という目で見られた……気がした。

 講義が終わってそのまま練習に移るのだが、わたしはせっかくの機会だから、そのエチオピア人の後ろにつかせてもらうことにした。名前を聞くと「アグネス」と言った。

 外国人と一緒に走るのは初めてだった。他のみんなは、留学生には勝てない、留学生は速すぎる、留学生は不公平って、口を開けば愚痴っていたので、つまりそんだけ強いなら着けば何かしら役に立つこともあるかもしれないと、この時なんとなく思ったのだった。

 実際走り出してみると、確かにスピードは全然違っていた。軽く走っているように見えるのに、わたしの方は全力に近いスピードで走らないと着くこともままならなかった。なんなら歩いているようにすら見えたから不思議だった。これが人種の違いなのだろうか。

 めっちゃ自然だなアグネス、とわたしは息を切らしながら思っていた。この人は、たぶん誰かに教えられたわけでもなく自分に合った走り方をしているだけなんだろう。身体のどこにも力みが感じられない。まるで、走ることと生活が地続きのような。走るために生まれたような。考えながら、試しながら、楽で速い走り方を見つけようとしてるわたしとは、根本的に違うな──そう思い知らされた。

 ちなみにアグネス、のちに世界選手権でエチオピア代表として表彰台に上がることになるのだけれど、それはまだだいぶ先の話だ。


 そして、ついに最終日。これまでになく身体と心を痛め抜いてきた身の丈に合わない合宿が、やっと終わってくれる。でも、どうだろう。初日と比べたら、最終日はだいぶ着こなせるようになっていたと思う。最初はブカブカだったランドセルが小さく感じたような。

 練習の締めは、全員参加の三千メートル走。こんな集団で走ったことない、というくらいゴミゴミしていた。ただ、これは勝負という意味ではあり得る話だし、いかに自分に有利な展開を作るかという練習なんだろう、とわたしは解釈していた。周りはスピードランナーだらけだが、構わず先行した。接触を極力避けるには前にいた方がいいし、自分でレースを作る方が後々粘りやすい。目論見は割と功を奏して、さすがに最終周ではスピードの絶対値が違うアグネスやその他の全国屈指の選手たちには敵わなかったが、それでもけっこう前の方でゴール出来たなー、という達成感が得られた。

 ちなみに、この三千メートル走、高校の指導者だけでなく、実業団と呼ばれるいろいろな企業の陸上部監督やスカウトも視察に来ていた。参加者の中にはすでに内定をもらっている人もいたので、状態確認という意味で来ている企業もあっただろうけれど、一から獲得する選手を探す思惑を持つ企業も多かっただろう。

 今もお世話になり続けているアコーダの羽生監督が初めてわたしを観たのはこのレースだったと言っていた。当初目をつけていた選手は他にいたそうなのだが、それより果敢に先行していく強気なレースが目を引いて、可能性を感じたとか。

 本当に、他人が自分をどんなふうに見ているかは、いつまで経ってもよくわからないものだ。

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